集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

「忖度」と「弁える」の共通点

 コロナ感染の1日も早い収束を願っています。それにしても、ふだん何となしに見過ごしていた「ことば」の意味合いについて考え込むことが多くなりました。いわゆる「ボケ」現象でしょうか。

 気になったのは、あの「モリカケ」問題と関連して登場した「忖度」です。普段は「そんたく」したのか、なるほどなあ~ぐらいに軽く通り過ぎていた。しばらくして「忖度って」何のことかなあ~と自問自答。辞書を見ると「他人の気持ちを推し測ること」の説明。現実は「推し測ったうえで、相手の都合に合わせてことを進める」ことになってしまった。

 同じようなことがオリンピックとの関連で問題になった「弁える」(わきまえる)。辞書によると「見分ける」とか「道理などを十分に心得る」といった説明がある。会議

での話が「長くなる」との例に合わせると、「弁えた人」は「話が短く、会議の雰囲気をよく理解している」となるでしょう。ここでは「短い」とか「雰囲気」が問題になると思われる。つまり「弁えた人」は「会議を取りまとめる人の意向を理解し、議論を尽くすよりもまとめることに協力する」という意味合いが強く打ち出されていた。つまり、主催者の意向に従って深く議論せずに早く会議を終わらせる、それは「相手の都合に合わせる」と共通しているではありませんか。

 高級官僚には「弁えた人たち」や「忖度に熟練した人たち」が増えたということでしょうか。いつの間にかそのような風習が機構のなかで醸成されたということでしょう。ここは納税者庶民が「それは間違いだ」と、大声を上げなくてはいかんときですね。外国のように台所の「鍋釜」を打ち鳴らしましょう。