集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

南北統一に期待を持って

 マスコミは一斉に朝鮮の南北首脳会談を大きく報じている。4月27日、いわゆる国境のそばの韓国・板門店の「平和の家」で韓国大統領と北朝鮮委員長の首脳会談が行われ、「板門店宣言」に署名したというもの。

 宣言の内容で注目されるのは朝鮮半島の非核化」が盛り込まれていることであり、南北分断の「休戦協定」「平和協定」に変えようということが折り込まれていることである。この目標が実現すれば、時間を経て核のない朝鮮半島が統一される見通しが出てくるということでしょうから、歴史的な大きな変化だろう。その実現を期待したいものである。 

 38度線を挟んで攻防が続く朝鮮戦争については、毎日郵便配達で届く新聞で矢印の変化を見ていた。多分まだ小学生の頃だったと思う。その後集団就職を経て夜間大学に進むと北朝鮮の躍進が話題であった。しばらくすると日韓条約が結ばれることになりその反対運動に参加することになった。そんな変遷をたどりながらも朝鮮半島の問題と民族の統一については関心を持って見つめていた。

 今回の宣言には”具体性がない”といった批評もあるが、宣言を現実化させるのは国際世論ではないだろうかと思う。目標に向かって一歩でも前に進めることを願っています。歴史の転換点になることを期待します。

見事な花は「クレマチス」でした

 散歩の途中で見事な花に出会いました。

 花の前にはじっと見つめているおばさんが居ました。

 「持ち主の方ですか?」「見事ですね。なんという花ですか?」と尋ねると。

 「私のものじゃない。これは、ここの会社の社長さんが一生懸命に手入れしているから立派に咲いているんだよ」と説明してくれました。そして「花はね。クレマチス、日本では”てっせん”っていうんだよ」と教えてくれました。

 なるほど、よく見ると花は、針金のフェンスの向こう側から伸びている。敷地には会社の看板が見える。花の好きな社長がほかの花も育てているらしい。

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 クレマチスまたは「てっせん」キンポウゲ科のつる性宿根草カザグルマとも呼ばれるそうだ。花は4月から6月上旬が見ごろ。花の大きさは10センチにもなるというほど大きく目立つ。それは”風車”にも見えるわけだ。花の色はブルー系、紫系、紅色系、ピンク系など多様で花の形もホタルブクロのようなものもあるそうだ。

 大きな花で、鮮やかなブルーが一斉に咲いていると余計に目立っている感じでした。 

 

元大臣の発言は「慎んで」済むことですか

 モリ・カケ問題に絡む「公文書改ざん」から、日報の「隠ぺい」、さらには「セクハラ問題」まで発展して政府や官庁、政治家に対する信頼は地に落ちてしまった。

 一連の問題で元文部大臣の発言は決して許される内容ではない。25日の朝日新聞を読みながら公党代表のコメントに悩んでしまった。

 セクハラ問題に関して、元大臣は講演会で「日本のメディアは日本国家をつぶすために存在しているのかと、最近つくづく思う」と話したそうだ。この講演内容に対する批判の声は立場を超えて沸き起こっているそうだ。批判の声は当然のことであると思うしもっともっと強めなくてはならないと思う。

 朝日新聞の記事によると、元大臣の講演発言について与党の一員である公明党の代表は「そうした発言は慎むべきだ」とコメントしたそうである。ここでいう「慎む」ということはどのような意味だろうか”気になる”ことである。公党の代表は、元大臣の講演内容に”きっぱりと、異議申し立て”できなかったのだろう。だから「言葉を慎重に」とコメントしたのだろうと思う。つまり元大臣の「メディア観」について公党代表は同調しながらも「言い方を選ぶべきだった」とコメントしたのだろう。

 「慎む」とは「度を越さないよう気を付ける」とか「控えめにする」という意味だそうですから、元大臣の講演内容を打ち消してはいないのである。つまり「メディアは国家をつぶすために存在する」ということを公党代表は「容認」しながら”言い回しを変えてほしかった”とコメントしているのだと思う。 

 いまの与党の姿勢を映したコメントだと思いました。とても許せない残念なことである。

疑獄史を塗り替える「公文書改ざん」許すな

 きょうも夕方近くに駅前を通ったので夕刊紙日刊ゲンダイを買いました。

 1面見出しは「疑獄史を塗り替える森友加計」そして「官邸主導、役所ぐるみという驚愕」である。もちろん毎日のように新事実が明らかになる「公文書改ざん」問題が記事の中心である。見出しにある「疑獄史を塗り替える」というのは、ロッキード事件リクルート事件、佐川急便事件などの首相や政治家が関与した事件として多くの人々の胸に残っている。いわば「贈収賄事件」だがそれらを想いおこしても、今回の「公文書改ざん」事件は”官邸主導”という点でより重大であり「疑獄史を塗り替える」ほどの大事件であるということ。

 夕刊紙報道など信じられないと思うかもしれませんが、4月14日付けの「日刊ゲンダイ」の記事は全体として”核心”をついていると思う次第です。

 記事は「国家を私物化する首相を、日本国民は許すのか。いままさに民度が問われている」とむすんでいる。その通りである。国民は、いまこそ怒りを表現し行動で表す時だと思う。「日刊ゲンダイ」もご奮闘ください。

 関連記事で「おかしいんじゃないの」と思うことがありました。一つは、森友学園前理事長が詐欺罪で牢屋にいるらしい。彼は無罪というつもりはないが、いま明らかになりつつある「官邸主導」がはっきりしたら”詐欺罪”はどうなるのだろうか。もう一つは「虚偽作成罪問えず」という2段記事に関すること。素人判断だが、この記事では「虚偽公文書作成罪」に該当しないというようである。それでは「公文書」は”勝手に書き換えても罪にはならない”と言っているように見えるが「正確」なのだろうか。公文書の「改ざん」は罰せられるのが筋のような気がするのだが、いかがですか。

話題は「首相案件」と「記憶の範囲」

 高齢者が数人集まると、年金振込月でもあるためか年金の少なさや健康状態、そして医者代の負担が話題になる。顔ぶれは70代がほとんど。

 健康状態では、背中が痛い、首が痛い、膝が痛い、腰が痛い、イボが痛くて歩くのがつらい、気候変動で気分が落ち込む、塩分を押えろと言われ味が薄くなった、血圧が高めなど話は尽きない。ある人が、「テレビや新聞を見ているとどうして毎日のように新しいウソがばれてしまうのだろうか。あれを見ていると情けなくなって余計に体調がおかしくなってしまう」と話した。この話には皆が同調したように思えた。

 最近では、ついにここまで来たかと思うような「加計学園」での「首相案件」メモが発覚したことだろう。しかも地方の地元でのメモである。これに関連して「記憶の範囲ではございません」と答弁した偉い人が居ると聞いては「開いた口が塞がらない」そのものである。シンジロウさんも言っている通り「記憶の範囲」外のところで真実を明らかにしてほしいものである。

 ほかに「森友」のごみ問題での新事実、防衛省での「日報」問題、厚労省でのデータねつ造など。誰かが「安倍もこれでおしまいだな」というと「それは少し早すぎるだろう。お終いにさせるためには世論の盛り上がりが必要なんだから」と解説する。すると「それもそうだな。じゃ国会前に行こうか」と元気な意見が飛び出した。ところが「その元気があれば、行きたいけどな~」のつぶやきで、わが身を思い知らされた。

 気持ちは”若い”のである。一般庶民を忘れた政治家や高級官僚の姿勢を正すのはいまを置いてない。いまですよね、林先生。

「ものの見方考え方」をテキストに

 晴れて大学の門をくぐることができた4月、新歓行事の呼びかけでサークルへ加入することになった。サークルの数はいっぱいあったが、どれも研究部を名乗っていたので当方は「ケイケン」という研究部に参加した。大学生として「資本論」を勉強できるといった高揚感があったことは間違いない。 

 研究部での学習活動が始まると、学校職員となったOBが講師として参加した。講師の説明に従いまず最初に選んだテキストは『ものの見方考え方』(高橋庄治著、文理書院)であった。テキストは5章に分かれており、5月初めからスタートし、第5章は7月ごろに学習しようという計画を建てた。

 実はこのテキストは、現在でも書棚に鎮座している。1968年4月21刷発行と奥付にあるので相当数の読者を持った人気の本だったようだ。定価は300円とある。当方は20歳を過ぎたころ文理書院が発行する雑誌『人生手帖』を時々読んでいたので、同じ出版社が出しているテキストに親近感を持ちながら学習会に参加することができた。

 さて、50年ほど昔を振り返るり、何を学習できたかと考えても思い当たることは少ない。初歩的な点で、理科や生物といった「自然科学」のほかに文学とか経済などの「社会科学」の分野があることを理解できたことが大きかった。経済学の『資本論』はまさに社会科学の分野にあるということ。その社会科学を「見たり考えたり」する視点とでもいうことをなんとなく教えてもらったような気がする。

 大事な点は「存在」ということだろうか。いま時点の公文書改ざんや隠ぺいに通じることがあるような気がする。それは「思うこと」「存在すること」との違いでもあるだろう。その延長線とも言える点で「理論と実践」がある。この「理論と実践」は今でも好きな”言葉”である。推論を実践で明らかにし、その繰り返しで一段と高い地点での経験を身につけることができる。人生経験の重みにもなることだろうと考えている次第である。

 大学1年次の想い出である。

 

新歓でつかんだ人生

 この時期は「新歓」行事が盛んである。その「新歓」で出合ったのが経済学を研究するというサークルであった。

 1960年代半ばに夜間定時制高校から、おかげさまで御茶ノ水の私立大学夜間部(第二部)に入学できた。夕方登校すると学内の広場では各サークルの「新歓」行事である呼び込みというか勧誘活動が活発に行われていた。当方は「経済学部」を選んでいたこともあって「経済」に的を絞って説明を受けた。その中でマルクス資本論を読めるようにする」との誘い口上に入部を決めた。

 なぜ「マルクス」かと考えるのが一般的と思う。当時の発想は「マルクス」ではなく資本論を理解するほうに重きがあった。それは定時制高校での授業中に歴史的名著のひとつとして「国富論」と資本論ほかが紹介された。先生はいろいろ説明を加えてくれたが、経済学の原理、原則を解明した論文として多くの人が関心を持っている名著である~と話していたような気がする。その資本論にじっくり向き合えるならぜひ仲間に加わろうといった気持であった。

 新入部員歓迎会には先輩やOBも参加したが、新一年生が10人近く参加した。なかには体も話の内容も”モサ”と言えそうな人も含めて個性的な顔ぶれが印象的であった。数人が「『資本論』を読めるというので入部した」と動機含めて自己紹介したのを記憶している。

 以来4年間、このサークルに身を置き、現在もOBの一員として時々会合に参加することがある。大学生として「新歓」行事で出合ったことがいまの人生のスタートと言えるかもしれない。