集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

社民党はどうなるんですかねぇ

 マスコミは「社民党」の多くが「立憲民主党」に合流するといった報道を繰り返している。地方版は地方議員の行方も大きく取り上げている。他人事ながら「大変だなぁ」時代も大きく変わってきたもんだと、昔のことを想い出した。 

 子どものころは電気も車もない自給自足の生活だった。そんな貧乏から抜け出したいと集団就職した。丁稚奉公しながらもう少し勉強しなくてはと思い3年遅れで夜間高校進学を果たした。その後も夜間大学へ通い何とかサラリーマンになることもできた。27歳になってからの話である。

 子どものころの貧乏の辛さを思い浮かべながら、選挙権はないものの何とか世の中を変えなくてはとどこかで考えていた。夜間高校に入ると社会班といういわゆる部活に加入し先輩たちと話し合うこともあった。

 今から60年前のこと1960年。いわゆる安保闘争など知らないけど社会党委員長の浅沼稲次郎日比谷野外音楽堂で暗殺されたことは記憶に残っている。当時の社会党といえば信頼も勢いもあったように思う。その後の社会党ではズーズー弁のササコー委員長が浮かぶ。さらには「山を動かした」土井たか子委員長である。山が動いたのは1989年の参院選挙だった。当方は40代後半に達していた。そのころ務めていた会社は業績低迷期に差し掛かっていた。我が家の家計も苦しさを増してきたころである。

 さらに時代が進むとのちの総理・村山委員長が連立政権に参加する。この時社会党憲法観が変わってしまった。日米安保自衛隊についての政策が変わってしまった。社会党は「社民党」にかんばんを置き換えた。そのころから「社会党」への期待感は全くなくなってしまった。

 かつての「社会党」は「社民党」になり、多くの人は「民主党」やら「希望の党」へとときの風を頼りに渡り鳥のように渡りゆく。そして今、「立憲」との合流である。国政であれ地方政治であれ「政党」では理念とか党是、綱領が命であってほしい。その命というか魂の部分を後ろに置いて渡りを繰り返す議員先生を信ずることはできない。東京では「ファースト」から「維新」に流れる議員もいるそうである。やはり血統は争えないものだろうか。

 昔の「社会党」の理念や勢いを学びながら、後継「社民党」の看板を守り盛り返してほしと、懐かしさを込めて思う次第。