集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

なぜか幹事長になった

 1965年の政治情勢は夜間学生にとっても課題が多かったような気がする。そんななか「資本論」の学習会までたどり着くことが難しくテキスト「ものの見方考え方」で終わってしまったような気がする。

 そのころは先輩といえば、一学年上の学校職員、2学年上の精密機器会社員、精肉店跡継ぎ、アルバイト学生と数少なかった。まして最終学年の4年生は席があるものの顔を見せることはなかった。そんな状況だから幹事長役をこなしていた精密会社員の先輩が次の幹事長役を誰にするか悩んでいた。そんな話を打ち明けられ、全体の雰囲気もつかみ始めていたので当方が引き受けることにした。多分1966年の寒い時期だったと思う。

 いわゆる年度の終わりごろのことである。1年次生の新幹事長ということで不安もあったが、ほとんどが1年生の集まりではないかと高をくくって引き受けた。その際に事務長も選出し、やはり同期の燃料企業で広報を担当している彼が引き受けた。研究部(サークル)の部長は商学部教授が引き受けていたが、部の活動に参加することはなかった。何かあれば教授室を訪ねて報告相談していたが、訪問回数は何回もなかった。

 早速の課題は、66年度の「新歓企画」であった。特別のアイデアがあるわけでもなく例年通り本館中庭にテーブルと看板を出して新入生を対象に呼びかけるしかない。そのためには早めに大学に到着する必要がある。この時間のやりくりが零細企業の見習い従業員の身分では難しかったことを覚えている。