集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

エアコンのない小学校が話題

 暑い!!! いやあ暑い!!!!!。 

 そんななか、高齢者5~6人の井戸端会議となった。

 きょうは、どこかでついに40度を超えたらしいぞ。 

 被災地の人たちは大変だよね。俺は何もできないけど。

 いま学校は夏休みになったらしいけど、この暑さなのに教室にエアコンがないらしいよ。どうするんだろうね。

 そういう話聞いたよ。孫が帰ってくるなり「死にそうだ」って言ってたらしいよ。

 なんでエアコンがついてないの。

 市には予算がないからだろう。しかも優先順位があるからとても学校のエアコンまで手が回らないということらしいよ。

 それはかわいそうだと思うよ。大人だって熱中症になって救急車に世話になってんだから。

 それとね。いまの小学校は前期と後期って2学期制なんだって。この間まで3学期が普通だったのにさ。そのためにこの暑さの中8月末から学校が始まるらしいよ。さらにだよ。前期と後期の間、つまり9月末だろうか期間休みという秋休みがあるらしい。だから秋休みをなくして、夏休みを多くすればよいという声が出てるらしいんだ。 

 そういえば、3学期から2学期に変わっていいことあったのかなあ。あんまり聞いたことないなあ。

 近所の人に聞いた話だけど、学校ではスポーツドリンクを禁止しているらしいよ。どうも水と冷たいお茶以外飲んではいけないということらしいなあ。ほんとかねえ。

 スポーツドリンクには糖分が入っているからじゃないの。でもさ。ニュースを見てると水分と塩分補給をと言ってるけどね。 

 学校っていえば、ここの小学校のブロック塀に「危険です」という張り紙があったなあ。プールの周りに目隠しとして作ったブロック塀が今では危険になってしまったんだね。

 なんか、いい加減な感じがするけど、その程度のことしか考えずにやってきたんだろうね。河より低い土地に住宅地を造成した業者に似ているとこあるんだよ。

 もうかりゃいい~といった発想に通じているかもね。

 歳よりももう少し意見を言わないとだめだね。遠慮しているともっと痛めつけられるよ。

 少しは涼しくなったかなあ。

 

 

『ものの見方・考え方』学習仲間が再開

 55年ほど前のこと『ものの見方・考え方』(文理書院刊)を集団学習していた際に講師を務めてくれた先輩を訪問する企画があり、先輩や後輩含めて11人で自宅を訪問しました。

 彼は、大学卒業後学校の事務職員を務めあげました。その仕事が終わってから週に1回ほど学習会に参加しあれこれアドバイスしてくれました。定年近くなりいわゆる「週末農業」を始めた模様です。そのうち今から15年ほど前のこと近くに”豪邸”を建設し、本格的に野菜作りに取り組んだようです(というのはこの間の模様を詳しく知ることができなかったため)。ところが、この4~5年の間、肋骨やら背骨、ひじなどの骨折が続き車いす生活の時期もあったようです。いまは、杖を必要としながらも車も運転し、達者な口答えをしながら老夫婦で生活しているようでした。驚いたのは食事量が極端に少ないこと。1食パン4分の1がほとんどとは、参加者皆が唖然としてしまった。でもやせ細っている感じはなく陽に焼けた精悍な身体と口調でした。

 豪邸といったのは、道路の角地に広い庭があり、しかも大きな池がある比較的目立つ2階建ての家だったからです。しかもとなりは赤い鳥居のある小さな神社(つまり、周囲が畑なので少しばかり小高い丘になっていました)でした。

 豪邸の前が畑で、トウモロコシ、落花生、おくらが生育していました。それでも3分の1ほどは草ぼうぼうでした。庭の耕運機もほとんど使っていない感じでした。この身体では無理のない話だろうと思いながら、お互いに言いたい放題の話をしながら40年ぶりの再会を喜び合いました。

 週末農業をしていたころの畑も案内しようというので車で移動すると、そこは畑ではなく「果樹園」だという。というのは、畑として手が回らないので”実のなる樹”を植えたそうである。だがそれでも手に負える状態ではなく、ほとんど放置してしまったらしい。いま夏みかんやレモンがいっぱい実っているが、誰も収穫することはなく、時間の経過を待つのみという。つまり何もかも放置したままであるらしい。

 その彼は、いま78歳で杖を突きながら畑仕事と詩吟などを楽しんでいるらしい。

 そんな彼を囲んで言いたい放題の空元気を飛ばした楽しい一日でした。

 《ものの見方・考え方》で老いの過ごしようもいろいろだと感じながらそれぞれが帰路につきました。

野蚕の成虫は蝶ではない

 野蚕・ワイルドシルクとして知られる天蚕・テンサンを飼育する場合、専門家から卵を分けてもらうことが多いようです。ある会合で聞いた話ですが、ヤママユガ(テンサンの成虫)は夜になると照明灯に集まってくるので、それを捕まえて増やしていくということでした。自然の森に生息しているのだからそれが一番だろうと納得しました。

 そこで、「蛾は飛ばない」と聞いていたが、そうでもないんだ~と考え込んだ。さらに「蛾」と「蝶」との違いは何なんだろうと、他愛もない謎解きが始まった。 

 チョウ(蝶)もガ(蛾)も「鱗翅目」に分類されるという。イメージとして「蝶」はきれいとか美しい。一方の「蛾」は汚いとか嫌だと毛嫌いされる。 

 静止するとき、蝶は翅を閉じる。蛾は翅を広げたままである。

 触覚は、蝶は棒状だが、蛾は櫛のような形である。 

 胴体は、蝶は細いが、蛾は太めである。 

 活動は、蝶は昼間活発に活動する。蛾は夜間に活動することが多い。 

 以上のような違いがあるようだが、明確な違いを見出すのは難しいようである。 

 確かに蛾の仲間であるが「オオミズアオ」の成虫を街中で見つけた時は、こんな美しいチョウチョがどうしたのだろう~と思ったほどである。ほかにもっと美しい「蛾の仲間」がたくさんいるらしい。

 チョウとガの違いを考えるのも楽しいものですね。

 

 

 

バブル崩壊の足音って本当ですか?

 夜になって気になる記事を読みました。朝日新聞「波聞風問」という編集委員の記事です。見出しはバブル崩壊の足音が聞こえる」というから、当方なりに熱心に読みました。

 これまでの人生で、いわゆる”バブル”に遭遇しましたが直接的なダメージを受けずに過ごしてきたと思っている(本当は様々な形で影響を受けているのだが少しだけ違う世界と見ているに過ぎない)。

 記事は、「米国の家計が持つ株や不動産など純資産額の異常な跳ね上がりだ。90年代までその総額は可処分所得総額の5倍ほどだった。いまは7倍近い」との専門家のコメントを紹介しながら、”バブル崩壊の足音を感じているようだ。専門家といえども今後の予測が「的中」するとは限らない。

 当方が気になったのは、バブル崩壊後の対応のことである。記事は「政府・中央銀行が手厚い経済対策を打ち、空前の金融緩和に乗り出した。結果として資産価格は回復し、市場や投資家は窮地から救われた」と解説している。

 そして米国でバブルが崩壊すると日本も道ずれにされるのが現実である。さて「わが国」はどうするのかと問いかけている。

 年金とパート収入でその日を過ごしている高齢者ゆえに直接的に「崩壊する資産」などない。ただ、消費税率が引き上げられそうである。年金が減りそうである。そのうえで国の景気がバブル崩壊に巻き込まれたなら老人の生活は大痛手をこうむること間違いなしだ。それに引き換えて「市場や投資家は窮地から救われ」ることになる。

 そんな「バブル崩壊」と「経済対策」はご免である。パート高齢者の感想である。

カイコやテンサン飼育に取り組む先生方へ

 暑い!!熱い!!!と、いうだけでは気分転換にもならない。そんな日々ですね。

 昨日の朝日新聞の記事を読みながら想い出しました。テレビで有名な俳句の夏井いつきさんのインタビュー記事です。と言って、俳句を作ろうかという話ではない。

 夏井さんは、俳句の底辺を広げようと「俳句甲子園を企画したそうである。それが21年も続いている模様です。関連するインタビューに答えて「俳句に熱心な先生が赴任し、飛躍的に成長した」例があります~と答えている。なるほど、なるほど。 

 そのころ、当方は「野蚕=ワイルドシルク」に関心をもちはじめ、小学校や中学校でカイコやテンサン(天蚕)飼育に取り組んでいる事例の情報を集め、時に100人(ヵ所)ほどに届けたことがある。そのころからなんとなく気がついてはいたのだが「〇〇に熱心な先生が赴任」しているかどうかによって、カイコなどの観察が続いたり中断することを再確認した次第です。

 近年では、部活などから先生の仕事が多忙を極めることが問題となり、話題ともなっている。昆虫から小動物の飼育観察では、ニワトリやうさぎ、さかなやカブトムシなどが多いように思う。それでも20年ほど前のことカイコやテンサンなどの飼育観察に取り組んでいる学校は全国に散らばっていた。なかには地元のテンサン飼育グループの助けを借りながら「カイコの一生」シルクによる作品作りに取り組んでいる例が見られた。最近は少し減ってきているような気がする(これは実証ではなく感触である)。

 当時から、理科や生物の時間に解剖実験などに取り組む先生がいなくなっているからとの感想を聞いたことがある。次第にその傾向が高くなったのかもしれない。同時にカイコやテンサン飼育に精通している世代が少なくなってきていることもあるだろう。

 ただ、カイコやテンサン飼育は、この種の昆虫の特徴である完全変態や繭糸から絹(シルク)ができ、それが機能的にも優れた衣服になること、その養蚕業がわが国の産業と経済の基礎を作ったことを学ぶことができる。そのように多面的な「学び」の要素を持ち合わせていることを知り、ぜひ「カイコやテンサン飼育」に取り組む先生が増えることを願っています。

消費者の意識が変われば「大量廃棄」は改まるのか

 衣服の大量廃棄に関して考えることをメモします。 

 当方は高齢者ゆえに、新しい衣服を買うことはほとんどない。普段は、現役時代のサラリーマン服を着るとか作業着は畑仕事で着るなどまだまだ利活用できる。それとリサイクルというか古着屋で必要なものは入手する。冠婚葬祭といった改まった場面の服装はその場で考えるとして、普段の生活では十分に間に合っている。 

 それは、ごく普通のファッション感性ではないと言う人が居るかもしれない。そうだろうと思うが、高齢者の収入からすれば十分ではないかと思うのです。確かに知人で年に何回か「夫婦でクルージング」を楽しんでいる人もいる。それなりに「気を使った服装」を心がけているだろうと想像する。それはいわゆる「庶民生活」とは違うような気がする。 

 サラリーマンや現役世代、若い人たちのファッション感覚、または衣服消費感覚は異なると思う。それは「使い捨て」と言っても良い「着回し」かもしれない。着回しは、循環に通ずると思うが「使い捨て」は言葉通りの「廃棄」であろう。論議にもあるように「着回し」、ネットなどを活用した「循環」型に意識を移してほしいものである。

 同時に、衣服製造の大量生産方式には様々な問題点があるように思う。おそらく、低コスト大量生産を前提にした工場の仕組みがあるのだろう。そのために現地では、それなりの経費削減策が行われ、低賃金や年少労働も行われているのだろう。そうした背景を店頭の「シャツ」や「パンツ」は見せてくれない。単に「安いけど個性的」を表現し、販売員も「新鮮感」を強調する。

 そのようなアパレル流通の仕組みをもっともっと明らかにしてゆくことがマスコミの役割かもしれませんね。単に「消費者がもっと賢くなることが大事」というだけでは、本質的な改善にはならないような気がします。

衣服の大量廃棄の深奥を考えましょう

 衣服の大量廃棄の現実に関心を向けると様々な問題が浮かんでくる。それが先に朝日新聞が掲載した記事の内容である。

 衣服の製造・卸・小売りといった流通形態が近年になって大きく変わってきた。ユニクロに代表されるが、衣服小売業を主体にしながら自ら企画し製造発注する、卸業抜きの形態が一般化してきたことにある。それが衣服の価格を引き下げ、顧客の求める「安くて・個性的」に対応することをかなえた。しかも「早く」にも対応する仕組みを編み出してきたといえる。 

 ユニクロの事業形態を「悪者扱い」する気持ちはない。問題なのは、衣服の大量廃棄に結びつく、低コスト・大量生産競争にあるだろうと考える。低価格の実現には、大量生産と低コスト=低賃金が欠かせないだろう。そこに潜むのが途上国などの低賃金労働者の活用だろう。それに年少労働が加わっているとすると問題はさらに批判を受けるだろう。

 衣服販売業が店舗を増やすのは自由競争ですから何ら問題はない。しかし、店舗には必ず「売れ残り」が発生する。それはセールやアウトレットで販売されるが、もともと生産されたすべてを販売消化することは無理に近い。それを実現するためには「限定生産」しかないだろう。従って顧客は「新しいものを求め」るために「手持ちを転売する」リサイクルショップとか通販を利用することになる。それでも流通量はセーブされることなく「量産」が続くのが現状だろう。

 そこで「大量廃棄」が問題となる。大量廃棄されても「利益」を生む仕組みがあるのだろうか。それがあるとすれば「価格」に問題があるか「生産コスト」または「流通コスト」に問題があるのだろう。同時に「大量廃棄」品の活用であるが、世界には「まっとうな衣服を求めている」貧困層が多数いるだろう。その人たちを考えるなら「廃棄」方法を考えることはものすごく重要である。

 「食品ロス」と違って衣服には「消費期限」がないといっても良い。途上国の年少労働を活用する前に貧困層の生活向上に目を向けることが大事だと思う。その視点で「個性的」でありながら「値ごろ感」のあるファッションを提供してほしいものである。

 そのために消費者の「賢い選択観」が求められていることも確かである。