集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

朝日で、衣服の大量廃棄を考えたい

 朝日新聞は7月3日付けをはじめ、衣服の国内供給量増える一方で購入単価が下がり、しかも大量に廃棄されている現状を様々な角度から点検している。衣・食・住の大事さを教えられた者としては”大量廃棄”の現実とその「根底」がもっと明らかになってほしいものだと思う。

 朝日新聞は3日付け1~2面を使って供給量の増大と購入単価の下落、大量廃棄の現実と問題点を取り上げている。また3日付け「文化面」ではファッション界にエシカル(倫理的)」の動きがみられることをまとめている。さらに5日付け「オピニオン面」で「服が安く買える社会で」有識者の意見を掲載している。一連の記事を読みながら「衣服の大量廃棄」を深く考えたいと思いました。 

 安くて個性的なファッションを求める消費者(顧客)に対応するためにアパレル企業は経営努力を重ねながら製造コストの安い工場や生産国を求めて行き、途上国などで生産された製品を扱うようになった。その間に「製造・販売」を一体化した経営スタイルも登場し、安くても個性的な洋服が素早く買えるようになってきた。そうした競合が激しくなる中で、大量生産、低コストが大きな流れとなり、結果的に「大量廃棄」も生んでいると思う。

 そうした裏側の問題点として、貧困層の存在、低賃金労働者活用依存、生産関連素材の浪費などが浮かび上がってくる。

 これらに対応するため、国連は「持続可能な開発目標(SDGs)」を2015年に採択し「つくる責任、つかう責任」を提唱しているという。ファッション界では、毛皮を使わない、モヘア羽毛を使わないといった動物愛護の視点を打ち出す例が増えているようだ。ほかに環境負荷を抑えた素材発掘や輸送コストの削減なども見られという。こうした思考をエシカルと呼んでいるようだが、それが消費者の「胸に響くか」は未知数のようだ。

 ほかにフェアトレードの思考もある。ある識者は「循環型社会」の広がりに期待しているようである。食糧分野の「食のロス」と同様に「大量廃棄」とか「浪費」の現実の深奥を考えてゆきたいものである。

プラスチック系から循環型を願う

 先日のラジオニュースで、プラスチック系ごみが海を汚している問題が放送されました。以前にも魚など海に棲んでいるものたちがプラスチック系のごみを飲み込んで困っているといった話題がありました。それに対してプラスチック系ごみを減らす・出さない取り組みが紹介されました。

 アメリカでの話しです。わが国でもよく知られるコーヒーチェーン店、レストランなどが取り組んでいるようです。例えばアイスコーヒーを注文するとストロー、ミルク、シロップがついてくる。それらの容器はプラスチック系でできている。もし海水浴客が不用意に捨てたとすると海水に浮遊してしまう。それを海水生物が飲み込んでしまうことがあるらしい。

 それを防ぐために、とりわけストローなどから自然に帰りやすいパルプ性に切り替えるといった取り組みらしい。先の有名店などが開始しているそうである。そうした取り組みが特定な店から企業数、地域とどんどん広がってほしいものである。

 街路樹の落ち葉はゴミですが、放置するといずれ土にかえるでしょう。それに代えてプラスチック系の製品ごみは、ごみであるだけでなく長い時間を経過しても土にかえることはない。海水生物のように体内に取り込んで苦しむことは自然の摂理に反していると思う。可能な限り早く自然に帰る循環型の製品に置き換えてほしいと思うのである。

6月の散歩は15回のみでした

 努力して続けていた6月の散歩回数は15回にとどまりました。残念無念。

 理由は、梅雨入りと腰痛と言える。気温が高くなるにつれ、時には低温を感じる日がありました。それに体調がついてゆけずに腰痛につながってしまったような感じがする。つまりは加齢に伴い気温の変動に体調が順応しなくなってきたということのようだ。それと梅雨入りで雨が続いたこと。 

 月末は、血圧の定期健診日に当たるので、近くの医院に行ってきた。腰痛の話をすると先生は「歩くのをやめてはだめだ。泳ぐのが一番だが、腹筋・背筋を鍛えることが大事だ」というので、7月から散歩を再開した。それはまた、気温が高止まりしたために腰痛も痛みを感ずるもののこらえきれないほどではなくなってきたためでもある。

 思うに、散歩のできる体力と体調を維持できる普段の生活を続けることが肝要といえそうだ。そんな生活を心がけようと思う。

奨学金のこと2題

 給付制奨学金がスタートしたと報道されていました。とても良いことだと思いますが、記事によると問題点も多いような気がしました。

 奨学金というと私などは日本育英会(?)を思い浮かべますが、いまは違うんですね。

 私は、夜間定時制高校に入学しましたが、しばらくするとある先生から「奨学金を利用することができるが、ぜひ利用してほしい」と呼びかけられた。そのころ私は、小さな印刷工場で住み込み見習い行員として働いていた。経営者の理解の上で通学していたので経済的な不安はなく、奨学金は必要ないと断った。それでも先生はあきらめずに「いまは必要ないかもしれないが、将来のために申請書を書いてほしい」というので先生の説得に従い奨学金を受けることにした。それから4年間奨学金を得ながら定時制高校を卒業した。

 卒業後、返還が始まると初めの頃は問題なかったが、夜間大学に進学し、さらに印刷工場から新しい職場に移るなど転職を繰り返しながらの生活が続いた。大学卒業後に正規の定職を得たものの35歳前後になるとゆとりある生活とは縁遠くなっていた。結婚後は返済も滞り、ついに担当者が返還催促のために訪問するようになった。見かねた嫁さんが「滞納全額」を一括支払いしてくれて一件落着した。

 借りたものは返さなければならない。それは理解しているのだが、現実の生活に窮すると滞ってしまう。その期間が長引くことも理解してほしいものである。

 もう一つは、子供の教育資金のことである。勤務先が思わしくなく生活もゆとりのない状況で大学進学を応援した。その結果初めの頃はさほど問題はなかったが、後半になると育英会奨学金や大学が設けている貸付金制度を利用しながら卒業までこぎつけた。貸し付けを受けていることは子供にも伝え、返済は子供の口座から引き落とすが親子で責任を持つということにした。その返済が子供が卒業後数年間続いたが、無事に完了したときは親子ともどもに「安堵感」を覚えたのである。

 子どもが在学中のこと、学費が滞り大学から催促が来ることがあった。そのころ勤務先で遅配、欠配が起こり家計がピンチになっていた。しかし、ある銀行に少しばかりの預金がありそれを取り崩せば学費の足しになると考え銀行に相談に行った。銀行は勤務先の事情などを把握したうえで「解約には応じられない」という。当方は「しかし、預金は私のものであり、私が使いたいといっているのだから了解してほしい」と訴えた。それでも銀行は応じない。そこで「最後の手段を考えます」と席を離れようとすると、担当者が「最後って何ですか」という。「子供を退学させます」というと。「そうですか、仕方ありません。了解しましょう」と、預金解約に応じてくれた。そんなことがあり、子供は何とか4年間大学に籍を置くことができた。

 子供は4年間に何を学んだかわからないままだが、一時スポーツ選手として頑張っていたが、今ではレストランに職を求めて生活している。

ベトナム北爆のショック

 タイトルに書いたように北東北の深い山奥で生まれ育った。小学生のころは「僻地の子ら」というニュース映画が製作され、それに登場している。私は澤水を汲んで校長先生の部屋まで運ぶ役割をした。また農作業の手伝いというシーンで稗島を結わえている場面にも登場した。この時は普段の仕事だからごく普通にこなしたのだが、撮影スタッフからは「もっと力いっぱいの表情を見せて」と注文が付いたのだった。それに対し「こんなのはいつもやっていることじゃないか」と気持ちの上で反発していた。

 そのころは、炭焼き生活で食料はほとんど自給していた。電気はなく夜になると灯油ランプが便りで、それを準備するのが子供の仕事であった。山のてっぺん近くに家があったため坂道が多く自転車などこげる状態ではなく、ましてや自動車など見たこともない。新聞は郵便屋さんが1日遅れで届けてくれた。

 こんな貧乏生活から抜け出すためにはどうすればよいだろうか。そんな思いが小学生の頃から頭の隅で重い塊になっていた。これがわが人生の原点である。

 それから10年余が過ぎて、多分1966年の秋だったと思う。米国によるベトナム北部への無差別爆撃とでもいうのか激しい戦争のニュース映画を見た。ナレーションは「ベトナムの人々を皆殺しにする侵略戦争である。これを許すわけにはゆかない」と訴えたように記憶している。米国の無謀な侵略戦争を許してはならないとの気持ちが高まったことは確かである。

 ベトナム戦争の本当の姿を見つめなおしながら、「ベトナム戦争反対」の抗議行動に積極的に参加するようになった。それは「民族の独立と自由」を考えるきっかけでもあったし「侵略」について考えるきっかけでもあったように思う。根本では「人」とか「個人」の尊厳、「戦争」の愚かしさなどを深く考えることにも結び付くことであった。

 子供の頃の「貧乏生活」は、今では「貧困と格差」とか「過疎地」とか「限界集落」などと話題であるが、とっくにわが故郷の集落は人もうさぎも棲まない荒れた山林になっている。あの大地震原発事故で村を追われた人々の「いま」を思うと怒りが絶えない。「貧困と格差」は、それを実感できない政治家をはじめとした高級官僚たちの責任である。それを作り上げている体制依存や風潮を許してはならないと思う。

 近時の「米朝会談」もいろいろと論評されている。関連して考えたいのはかつての「わが国が犯した侵略戦争のことである。まだ「侵略戦争」に携わった人たちがいる時だからこそ「正確な情報」を伝えることが大きな役割だと思う。

 「貧乏」と身勝手な侵略戦争を問い続けながら、残された時間を生きてゆきたい。

野蚕ーヤママユガ科の仲間たち

 素人なりにカイコヤサン(野蚕・ワイルドシルク)について触れておきます。

 カイコは桑の葉っぱを食べて成長し、繭を作ります。繭から生糸ができ、絹織物や製品がつくられ、人々の生活にとって欠かせないものです。その歴史は古く、人々は「おカイコさま」といったように尊いものとして扱って来ました。

 ずっと昔の人たちは、カイコの特徴を知り、自分の家で飼育するようになったのでしょう。現代にいたるまでカイコは飼育されながら繭を作り、シルク製品を人々に提供しています。ですからこの種を「家蚕」(かさん)と呼んでいます。

 これに対して、自然に生育しながら繭を作る昆虫がいます。研究者たちはこの種類を「家蚕」と区別するために「野蚕」(やさん)と呼んでいます。この「野蚕」にはとても多くの仲間がいますし、なかには家の中で飼育されるものも見られますが「カイコ」のように大量に飼育されたり、生糸を安定生産することはできません。

 わが国で「野蚕」としてよく知られるのは、①「天蚕」(テンサンまたはヤママユ)です。クヌギやコナラ、カシワなどの葉っぱを食べて成長し、緑色の繭を作ります。繭からは生糸が採れ様々な製品を作ることができます。生糸の輝きや色合いが魅力的でとても高価な製品になります。ですから愛好家は施設を作ってグループで飼育する例が見られます。

 またわが国に見られる②「ウスタビガ」も知られています。この昆虫はクリやクヌギ、コナラ、ケヤキの葉っぱを食べて成長します。緑色の繭を作りますが生糸を引き出すことは難しいようです。そのために繭を飾り物にして販売することがあります。それでも習性を考えながら飼育に挑戦している例も報告されています。

 中国が原産地でよく知られるのは③「サクサン」(柞蚕)です。クヌギやコナラの葉を食べて成長し褐色の繭を作ります。生糸も生産できますので中国では飼育も容易にできるようです。ただカイコの絹とは違うのでシルク自体は「安物」扱いされてしまいます。また「さなぎ」を食べるために飼育する例も見られ、生糸ができないこともあるようです。 

 インドや東南アジアで見られる④「エリサン」(恵利蚕)もよく知られます。ヒマやシンジュ、キャッサバの葉を食べて成長し、白い繭を作ります。生糸はできますが長い一本の糸ではないようです。製品も作られ販売されています。比較的容易に飼育できるということで、かつてはわが国でもビジネスとして大量飼育されたことがあるようです。当方もドレスシャツを着用していますが、色合い着心地とも満点です。

 インドといえば、⑤「タサールサン」(またはタッサーシルク)と⑥「ムガサン」(ムガシルク)があります。「タサールサン」はサラソウジュやコバテイシ、ブナ科のコナラを食べます。繭は大きく褐色で、インドでは織物として利活用しています。また「ムガサン」はタブノキやイヌガシ、コナラを食べて成長し大き目で茶褐色の繭を作る。金茶色の生糸ができますので、衣服や装飾品として多用されます。双方とも飼育が盛んですが生糸として輸入することは難しく生地や製品として輸入され、愛好家の間では洋服やスカーフ、パラソルなど人気となっています。 

 インドネシアほか東南アジアに生息する⑦「クリキュラ」もよく知られています。アボガドやカンラン、ケドンドンの葉を食べます。ゴールドで隙間のある薄い繭を作ります。紡ぎ糸を作り織物にすることができます。かつて和服用の帯が作られて話題になりました。

 ほかに中国やベトナム、インドなど広い地域で見られる⑧「テグスサン」(またはフウサン)がクスノキや柳を食べて育ちます。連想できるようにこの繭から魚釣りに利用したテグスが作られたそうです。漁網も作られたようです。

 インド、中国、日本で見られる⑨「ヨナクニサン」があります。巨大な蛾のひとつとしてよく知られます。沖縄県では天然記念物に指定し保護しています。繭は大きめですが生糸の確保には問題もあり一般的な製品は無理のようです。

 わが国で、サクラ、クリ、カエデ、アセビなどを食べて成長する⑩「オオミズアオは蛾の色模様が特徴的でよく知られます。

 さらに桑の葉を食べる⑪「クワコが、中国や朝鮮半島、日本に見られます。桑の葉を食べることから「カイコ」のもともとの先祖との説もあります。カイコも繭も小さく、改良・飼育化された「カイコ」とは区別されています。

 これらは「野蚕」の中でもヤママユガ科」のグループに属します。ほかにも「〇〇科」と言われるグループが無数にいます。同時に「野蚕」ですから食樹と気候さえ整えば様々な繭を作る昆虫が生息できるわけで、研究が進めば新たな「野蚕」が発見できることになります。さらなる利活用も開拓できるかもしれません。

なぜか幹事長になった

 1965年の政治情勢は夜間学生にとっても課題が多かったような気がする。そんななか「資本論」の学習会までたどり着くことが難しくテキスト「ものの見方考え方」で終わってしまったような気がする。

 そのころは先輩といえば、一学年上の学校職員、2学年上の精密機器会社員、精肉店跡継ぎ、アルバイト学生と数少なかった。まして最終学年の4年生は席があるものの顔を見せることはなかった。そんな状況だから幹事長役をこなしていた精密会社員の先輩が次の幹事長役を誰にするか悩んでいた。そんな話を打ち明けられ、全体の雰囲気もつかみ始めていたので当方が引き受けることにした。多分1966年の寒い時期だったと思う。

 いわゆる年度の終わりごろのことである。1年次生の新幹事長ということで不安もあったが、ほとんどが1年生の集まりではないかと高をくくって引き受けた。その際に事務長も選出し、やはり同期の燃料企業で広報を担当している彼が引き受けた。研究部(サークル)の部長は商学部教授が引き受けていたが、部の活動に参加することはなかった。何かあれば教授室を訪ねて報告相談していたが、訪問回数は何回もなかった。

 早速の課題は、66年度の「新歓企画」であった。特別のアイデアがあるわけでもなく例年通り本館中庭にテーブルと看板を出して新入生を対象に呼びかけるしかない。そのためには早めに大学に到着する必要がある。この時間のやりくりが零細企業の見習い従業員の身分では難しかったことを覚えている。