集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

6月の速足散歩は27回でした

 健康のためにと速足散歩1時間を続けている。6月は30日のうち実に27回(日)歩きました。この回数は我ながら「努力賞」だと思います。

 回数(日)が比較的多かったのは、梅雨入り宣言されたとはいえ雨の日が少なかったこと。それと5月から早朝の散歩を始めたことが大きい。早朝というのは、4時半から60分ほどの散歩であるが、いまの時期、明け方の”薄暗さ”を感じることのない明るさである。確かに車や人通りが極端に少なく散歩にはうってつけでもある。

 これからの気温のことを考えると、しばらくは早朝が散歩に適しているかもしれない。ただ早朝の明るさがいつごろまで続くのか気がかりである。日の出が遅くなり4時半スタートが無理になると、パート仕事との関係で午後から夕方に歩くことになってしまう。そうすると回数がやや減ってしまうかもしれない。

 まあ、無理のない散歩を心がけてきたのだから、1ヵ月の回数にこだわらずに「健康づくりの散歩」を目指すことにしよう。

小学校の同級生は11人

 子供のころ山奥の村は町村合併により「市」に変身した。1954年(昭和29年)11月のことである。そのころ村には大字が5つありそれぞれに小学校がおかれていた。ほかに分校が2つあった。中学校は役場のある近くに1つあり、村中から生徒が集まった。つまり村には学校が小学校7つと中学校1つがあった。

 当方の通う小学校は、村の中でも山奥の方であったが生徒数は2番目か3番目の数だった。それだけ集落が多かったことになるし、1つの小字集落には分校があった(わが大字には小字集落が4つあった)。小学校3年のころまでは1~3年生と4~6年生がそれぞれ同じ教室に机を並べていた。典型的な複式学級である。その後校長先生が変わり1~2年生と3~4年生、5~6年生が3つの教室に分かれて勉強した。先生は校長先生夫妻のほかに独身の先生が赴任してきたのだった。

 何しろ小学校の生徒数は、多くて30人ほどで、半分ほどが親戚のような顔ぶれだった。なかで当方の同級生は11人(男5人、女6人)でとびぬけて多かった。その頃の生徒数は村の中でも2番目だったと思う。

 それが中学生になると、村の中学校に通う者は男4人のみで、あとの7人は隣村の中学校の分校に通うことになった。それほど辺鄙なところで村役場近くの中学校との距離感がわかるような気がする。通学時間は、我が家から小学校までがざっと1時間、中学校までは山をいくつも超えて歩いてざっと2時間と言われてきた。それ以外の通学手段はなかった。

 村の中学校には7つの小学校から生徒が集まった。3学年全校生徒数はざっと200人を超えることがあった。だから学年によってクラス編成が2つになることもあった。山奥から出てきた当方など生活感覚の違いから物怖じしてちじこまんでいたことを想い出す。

 そんな電気のないころの生活を想い出した。

 

旧暦のお盆は子供の楽しみだった

 こどものころのお盆は、いまのような月遅れではなく旧暦に従った行事であった。従って現在の新暦でいえば8月後半から9月初めごろに行われていた。

 子供が楽しみにしていたのは、何よりも家族が普段の仕事を休んでくつろげたことである。真夏のことでもあり畑仕事や炭焼きの仕事などを休み本当にゆっくりしていた。そんなことは正月とお盆ぐらいしかなかった。ということで、たまに親戚が訪ねてくることもあった。その際は、手作りの「まんじゅう」や「背中あて」などの手土産を持ってくることが多かった。なかには町で買ったお菓子が混じっていることもあった。その手土産は、普段の食事と違って珍しいごちそうであった。それが子供の楽しみでもあったわけである。それに親戚の人たちと会うと親しみもこみ上げて甘えられることや褒めてもらえることがうれしかったのである。

 まんじゅうというのは、小豆をつぶしたテニスボール球を小麦粉の皮で包んでゆでたものである。背中あては小麦粉を伸ばして四角に切ったものをゆで上げたもの。その名前は固く重いものを背負うときに背中に当てていた四角い厚いゴザ風のものに由来するだろう。それは炭焼きにとっては必需品であった。

 我が家の墓は、歩いて40~50分のところにあった(集落の墓地)。墓と言っても墓石などほとんどなかった。戒名を書いた卒塔板がある程度だった。地べたにお線香やろうそくを立て松の木の切れ端に火をつけて先祖を供養するのがほとんどである。家に戻ると松の木の切れ端をそろえて送り火や迎え火を炊いた。それが子供らの仕事でもあった。

 子供のころというのは、昭和29年11月以前のことである。というのは1954年になって、山奥の村は「市」になってしまったのである。そのころ、ようやく灯油ランプの照明から電気照明に変わったのだった。電気が来るといっても集落では大変だった。何しろ自分の家までの電柱は自前で準備しなければならなかった。今でこそ電柱はコンクリ製だが当時は栗の木の大木だったから、どこの家にでも栗の木があったわけではない。それを集落で融通しあったわけである。

 そんな貧乏な山奥の生活を想い出した次第である。わが人生の原点でもある。

 

ききょうは”盆花”といった

 近所の庭に真っ盛りのキキョウを見つけた。その品種などはわからないが”桔梗”であることは間違いない。草花の中でも好きな花の一つである。  

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 当方が育った山奥では、「ききょう」は自然に生育する野草の花であった。だから特別珍しいことはないが印象強い花である。刻みたばこに「ききょう」という名前があったことも印象を強くしているのかもしれない。

 この「ききょう」を子供のころは”ぼんばな”と呼んでいた。それは旧暦のお盆のころ咲くからであったろう。旧暦のお盆と言えば新暦では8月後半から9月初めに当たるだろう。当時はお盆と言えば旧暦に従った年中行事であった。家族で先祖の墓に行く道中で草むらのききょうを探して何本かを墓に持って行った。何本かは赤アリの巣の上にかざしていたずらをするとアリの廃液でブルーの花がピンクに変わってしまう。そんな変化を楽しんだものである。

 旧暦のお盆は、子供にとって実に楽しみの一つであった。

 近所の「ききょう」を観ながら子供のころを思い出した。

サボテンの花が咲きました

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 我が家にはサボテンがいくつか生育しています。その一つが昨日花を咲かせてくれました。実は同じサボテンの2輪目の開花です。前例からすると3日ほどで花を閉じ次第に廃れてしまいます。美しいというかカレンというべきかともかく珍しい花です。

 今回は写真を残しましたのでご紹介します。サボテンの種類などわかりませんので、アドバイスいただければ幸いです。

 もう一つのサボテンには2つの花芽ができ成長中です。気温が高くなるごとに成長が早まるようです。開花を楽しみに観察を続けます。

6月15日は「共謀罪」成立の日

 さまざまな記念日が多いなか、「今日は何の日」として過去を振り返ることが多い。

 きっと、数年後には2017年「6月15日」を「共謀罪」強行成立の日として想いおこすことになるだろう。詳細はわからないが、犯罪の実行がなくても「計画を話し合っただけでも」捜査し処罰してしまうことらしい。よく言われたのは、お花見の下見なのか”双眼鏡を持っていると犯罪計画の打ち合わせ準備”といった法務大臣説明など、訳の分からない説明が繰り返され、ついには国会開会中にしゃにむに成立させたのがこの「共謀罪」である。まさに自民党公明党日本維新の会の凶暴、共謀である。

 今国会は実質、6月17日まで続く。その会期中にどうしても成立させたかったのだろう。先に衆議院本会議で強行し、参議院に回されたが、参院法務委員会での審議を打ち切らせて、参院本会議に持ち込んだ。それも14日深夜から15日にかけての異常、強行が重ねられた結果、ついに国会の手続き上は成立してしまった。

 民主的手法が”当たり前”と考えてきた当方の70年以上の人生経験を大きく変える法体系になるのだろう。何か話し合うと「共謀」ととらえられ、知人、友人の行動やしぐさを「密告」する日常が次第に定着する。そんな生活を考えるとぞっとしてしまう。

 「共謀罪」の実施を許さない日常、そして「共謀罪」の廃止を実現したいものである。そのための知恵が必要である。

玉ねぎ、ジャガイモの収穫

 我が家の市民農園はいつもながら多忙である。ちょうど梅雨入り前に玉ねぎを収穫し終わった。玉ねぎはいま軒下で乾燥中である。子供の頃冬になると保存食用の「凍み豆腐」を作り、軒下で乾燥させていたが、そんな風景が浮かんでくる。ほかに夏大根の収穫を始めた。大根は寒い中で育つのが本物と言える。素人の育てる夏物の味はどうかと心配したがまずは新鮮さを味わえるのが楽しみである。そして、3月に種まきしたジャガイモの収穫が始まった。生育状態から少し早めだが「キタアカリ」品種から掘り起こして新じゃがの味を楽しんでいる。

 さらに、キュウリがほとんど毎日のように収穫できるように生育している。ナスもほぼ毎日1個とれるようになってきた。

 これからの楽しみは、ピーマン、シシトウ、トマト、インゲン、つるむらさき、モロヘイヤ、トウモロコシである。ほかに里芋が芽を出して成長している。これは当方が植えたわけでもないのに勝手に成長しているもので、自然の恵みとでも言えそうである。成長、収穫を楽しみにしている。

 農園作業で汗を流し、医者いらずの老人生活を楽しみたいと願っている日常であります。感謝。