集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

高木敏子の「ラストメッセージ」を読んで

 ひょっとしたきっかけで高木敏子さんの「ラストメッセージ」に出会うことができ、興味深く読みました。高木さんは「ガラスのうさぎ」の作者であり、ご高齢ながら活躍されておられるようである。この本は「ガラスのうさぎ」の誕生を柱とした高木さんの追想記とでもいう内容のようだ。ということで「ガラスのうさぎ」について、ようやく概略を知ることができました。

 当方は若いころ「ガラスのうさぎ」の映画を見たような気がする。というのも「ガラスのうさぎ」について”うっすらとした記憶が脳みそにこびりついている”からである。それが「はっきりした記憶」でないことも確かである。もやもやした想いをたどりながら、横浜で起きた米軍偵察機の墜落着陸事故と幼い子供2人が犠牲になった事故を思い出していた。どうも様々な経過から「ガラスのうさぎ」と横浜での米軍機事故が重なってしまったような気がする。

 小説「ガラスのうさぎ」が出版されたのは1977年12月8日(金の星社」だそうである。そして映画「ガラスのうさぎ」が試写上映されたのが1979年6月のことという。一方横浜市での偵察機事件が起こったのは1977年9月27日。翌日には幼い子供2人が亡くなっている。4年ほど後には若いお母さんも亡くなっている。その事件の模様は「パパ ママ バイバイ」の作品として広く知られるようになった。また1988年には「愛の母子像」が設置されている。

 どうも「ガラスのうさぎ」の映画と横浜事件とその後の経過が、当方の頭の中で重なりあい混乱を深めたように思う。

 そのころ当方は結婚間もない時期であった。横浜での米軍偵察機墜落とその処理の仕方を報道で見るたびに腹立たしく思ったことは忘れていない。その後に映画「ガラスのうさぎ」を鑑賞して、余計に戦争の悲惨さと米軍の勝手な振る舞いに怒りが増したような気がする。そうした思いは今でも変わっていない。

 貧困との闘いと平和の希求は当方の最大のテーマであり続ける。

 

5月の速足散歩は26回(日)でした

 健康のためと努力している”速足散歩”5月は「26回(日)」を数えました。予想以上の回数で、自分にご褒美といった感じです。

 比較的多かったのは、雨の日が少なく天候に恵まれたことが大きな要因。それと日の出が早まったことから朝4時30分スタートも取り入れたことである。冬の間はこの時間だと暗いことと寒さが厳しいために無理はできない。夏は夕方よりも早朝の方が歩きやすいかもしれないと思うようになりました。

 これからも条件が整えば早朝の散歩を重ねてゆこうと考えているところです。

 速足散歩で健康ライフ、医療費軽減で経済負担も軽やか。感謝、感謝。

ブラシの木が見ごろ

 午後、公園内で花壇を作っている関係で様々な問題で協議が必要ということで出かけた。この件は話し合いが順調で「予期せぬ難題」などはなく、みな”ホットした”模様だった。まずは「一件落着」となりました。

 その足で近くの公園へ行くと「ブラシの木」がちょうど見ごろでした。

 図鑑などによると、フトモモ科の常緑広葉低木という。オーストラリアから明治時代に渡来したものという。花期は5~6月で今がちょうど見ごろといった感じ。赤い花がボトルを掃除するブラシに似ていることから名付けられたといわれる。真っ赤になった花が、確かに台所で見かける食器洗い用のブラシによく似ているのだ。納得である。

 写真で見ると、理解が深まると思います。 

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山菜はいっぱいあった

 子供のころの食事は実に貧しかったが山菜はいっぱいあった。いま都会で珍重されているタラの芽とかウド、またはフキノトウなどごく自然のものであり珍しい食材ではなかった。季節に山に入ると無理なく手に入るものだった。いま都会で高価な値段を見てびっくりするほどである。

 山菜と言えば、タラの芽、ウド、フキ、ワラビ、ぜんまい、こごみ、ウルイ、ニラ、野ビル、ヨモギ、アザミ、シドケ、セリ、ミズ、シドケ、トコロなど季節ごとに食べるものはいっぱいあった。ほかに山菜ではないが各種キノコなど食材は自然が提供してくれた。

 ここで特に「トコロ」について触れておきたい。一般に「野老」(ところ)と表現されている。ヤマイモ科のつる性植物で山には自然に繁殖している。その根をおやつなどとして食べていた。根を掘り起こしゆで上げて食べるのだが、決してうまいものではなかった。それでも腹が減っているために何個も何個も食べたものである。

 根は、落花生が無造作につながったような感じで無数の細根が生えていた。ゆで上げると黄色くなり、細根を取り除いて食べたものである。少し苦みがあったような気がする。そんなときは黄な粉を付けて食べた。

 改めて調べてみると一般に「トコロ」(野老)の根は食べられないという。ただ同じ仲間の「オニドコロ」とか「ヒメドコロ」は食べられるという。実際に新潟県の一部で昭和30年代に「オニドコロ」の根を食べていたとの証言もある。ほぼ同じ時代の食生活と言えそうである。

 ほかに都会ではあまり見かけないが、「ミズ」は食べてみたい山菜である。当方の記憶では、澤水が流れるあたりに繁殖していた「赤ミズ」(都会では青ミズが売られている)である。根元をすりつぶしてねばねばにしてご飯にかけて食べていたのを想い出す。決しておいしいとは思わなかったが、いまの時代に食べてみたい自然食材である。

 自然の恵みに感謝することの大切さを想いおこす”現在”2017年である。

野菜は大根や瓜、ジャガイモなど

 当時(昭和33年ごろまで)我が家で栽培していた野菜は、大根、丸大根、かぶ、ニンジン、ゴボウ、瓜(キュウリの一種)、ナス、ジャガイモ、カボチャ、ゆうがお、トウモロコシ、ほうれん草、白菜、菜の花、赤しそ、とろろ芋などだった。とうもろこしは穀類に加えるべきだったと思うが失念していたので書き加えた。

 いま「キュウリ」と言えば細長い緑色のもので、スーパーなどへ行くとどこでも販売している。当時栽培していたのは、いま都会でいう「キュウリ」とは異なる。郷里では「瓜」が一般的な呼び方であった。キュウリと違うのは、成長すると太くなり茶色になる。なかに種がたくさん詰まっており熟したものは「種」として保存利用した。生で味噌汁や味噌和えのほか味噌漬けがおいしかった。

 大根は、収穫後土室(いったような気がする)を作って保存し1年中食べられた。また一部は冬にゆでて、自然に凍らせたあと乾燥させ「凍み大根」としてみそ汁などの具として食べていた。これは「凍み豆腐」と同じ方法による保存食づくりだろう。同様に大根の葉っぱも冷凍後に乾燥させて真冬に食べていた。

 葉物栽培が少ないような気がするが、ほとんど山菜で間に合っていたのだろうと推測する。そうしたなかに菜の花があった。これは菜種油の必要性から栽培したものと推測するが定かではない。その菜種油を絞った後の粕の塊をおやつとして食べたことを懐かしく思い出す。

 なんともわびしい生活ぶりであった。

 

 

稗と大麦が主食だった

 栃の実に関する想い出を綴ったので、今回は当時の主食の穀類について書くことにした。

 家は奥深い山奥にあった。そこは山の中腹といった感じのため水田ができるような平地はなく水も澤水に頼っていた。ということで「コメ」が食卓に出ることはまず考えられなかった。

 主食の穀類と言えば稗と大麦(麦飯とも稗飯ともいわれる)のご飯である。大麦を町の精米所などで「押し麦」にしてもらうと少し白さが増してなんとなくおいしくなったような気がしたものである。この稗飯を弁当箱に詰めて中学校に持ってゆく。冬になるとストーブの上に弁当箱を乗せておくことが許され、何人かはストーブの上で温めて食べた。多くの人の弁当は白いコメが覗いてくるのだが、当方の分は稗と麦のために白さは全く見えない。なんとなく気恥しい思いをしたことを想い出す。

 しかし、弁当を持ってこれない人もいたし、稗や麦の耕作地がなくては主食穀類が不足するのは明らかである。コメは現金で買わなくてはいけない。それだけのゆとりがどれだけ整っていたか定かではない。むしろ稗や麦の耕作地があるだけでも一面豊かに受け止められたころである。

 ほかに我が家では、小麦、粟、イナキビ、タカキビ、大豆、小豆、ソバ、ゴマなどを栽培していた。小麦は小麦粉としてうどん類やまんじゅうの皮として調理された。粟はコメに代わる粟餅として食べた。大豆は豆腐やみそ、小豆はあんこなどとして食べた。今でこそ雑穀はヘルシー食材と話題になるほどだが、当時は貧乏人の食事としてさげすまれもしたのである。

 それでも、当時の雑穀食があったからこそ健康体の今があるのだろうと思うこともある。想い出ボロボロだが「健康な日々」に勝るものなしと勝手に思い込むことにしている。

栃の木の花で想い出すトズめし

 

 住宅地の脇にある小さな公園に数本の栃の木があり、いま赤い花が真っ盛りである。花が咲いていることを見ると秋には実がなるのどろうと思うが栃の実を観た記憶はない。なんか不思議のような気がする。

 公園の樹が「栃の木」であることを知ったのは3年ほど前のこと。赤い花が目立つので近所の人に尋ねている間に「栃の木」であることが分かった。そのことから子供のころに食べていた「栃の実」を想い出した。それと、子供のころに栃の木の花を認識した記憶がない(ごく当たり前の自然の移り変わりと見過ごしていたのだろうか)。

 子供のころというのは、1955年(昭和30年)ごろ以前のことである。その頃は我が家には電気は届いていなかった。照明は灯油ランプであった。夜の食事時間になると灯油ランプの下に4世代の家族が揃って銘々膳で静かに食事を済ませるのが習わしであった。

 食事は、稗と麦のご飯に山菜の味噌汁がほとんどであった。米を食うことは珍しいことであり、せめて押し麦によりご飯を少しだけ白く見せるのがぜいたくでもあった。同時に時には「シダミ」(コナラの実)や「トズめし」(栃の実)が出ることもあった。木の実を食べることは珍しいことではなかった。胡桃はぜいたく品で正月に粟餅に付けて食べるときが楽しみであった。栗の実は、ときおりぜいたくな栗ご飯として食べたほか子供のおやつでもあった。ほかに渋柿、スグリ、ばらイチゴ、桑イチゴ、サクランボなどが自然のままの果実であった。

 その中で特別なのはシダミとトズ(栃の実)だろう。シダミは鍋で煮ると黒くなり、それに黄な粉をかけて食べるのが一般的だった。ただ口の中が黒くなり食べ終わったら口回りに気を使ったものである。栃の実は食べるまでに手間がかかった。灰汁抜きに時間をかけてあんこのように練って食べたような気がする。決しておいしいものではなかったが、稗めしだけの日常に変化が出るということがあったように思う。

 いま「栃の実」は菓子類に使われているようだが、子供のころの調理では食べることができないだろうと思う。だからこそ、当時がいかに自給自足に近い生活であり貧乏のどん底生活であったかを想いおこすことになる。 

写真上は栃の木、下は栃の木の花

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