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集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

ジャガイモ、ネギ植えました

日記 野菜畑

 市民農園は春の野菜作りで大忙しです。

 17日にはじゃがいも「メークイーン」1キログラムを植えました。

 24日にはねぎ40本ほどを植えました。

 25日にはじゃがいも「キタアカリ」1キログラムを植えました。

 いずれも出来栄えを抜きにするとさほど問題はないものと思われます。当方の野菜作りの特徴はほとんど肥料を使わないこと。野菜の残り物や枯葉を埋め込むこと、腐葉土をすきこむなど無肥料を心がけていることです。したがって隣の畑に比べると成長が甚だ見劣りすることです。でも我が家で食する程度の野菜はできますので、これで良しと考えているわけです。

 いま農園で成長しているのは、ニンジンと玉ねぎ、レタス、春菊、ブロッコリー、キヌサヤなど。春菊とレタスは成長に合わせてつまんで食べられるので重宝しています。

 市民農園に感謝です。

温浴施設での社員慰労会を満喫

日記

 昨日はパート先が開催した”社員慰労会”に参加した。

 会場は、大型温浴施設。この地域のパートは約250人、うち60人ほどが参加した。慰労会はこれまで、秋ごろ2回(日時、会場を変えて)開かれ参加者の都合でどちらかに参加していたが、当方の提案もあって、参加者を増やす狙いでその地域ごとに開催することになったそうだ。

 地域責任者らの説明によると、この業種の今後はますます厳しくなるという。少子高齢化が進むこと、技術開発が急速であるなどにより人手不足が続くとみているようだ。それで雇用環境も今まで以上に整えていくという。また雇用について、いま70歳の人は80代まで働けるように健康に気を付けながら長く働いてほしいといったリップサービスも聞かれた。

 実際は、時給は最低賃金ギリギリに張り付いている。今後の社会保険制度の適用を考えて勤務時間や日数を押えるためにシフト制を強化するなども説明している。欠勤者を出せない事情もあって「休暇抑制」の説明も頻繁である。これからどのような具体策が出てくるか注目である。

 慰労会は、優秀社員・永年勤続者表彰のあとカラオケ大会となった。カラオケ大好き人間が多くどの歌い手も、素人から見ても”上手だな~”と拍手を贈りたくなる演技ぶりだった。とりわけ同じグループの知人が登場すると拍手喝さいが強まり賑やかな宴会カラオケとなった。

 宴会行事の前後は、参加者の都合に合わせて温浴を楽しめるのが特徴である。それにしても、26日は冷たい雨のためだろうか温浴施設はごった返すほどの混雑ぶりだった。感謝の1日を過ごすことができました。感謝。

同級会8人で開催する

想い出 日記

 集団就職かるら60年ほどが経過する。そのような意識があったわけでもないが4日、東京で同級会が開かれ8人が参加した。 

 郷里の中学校を卒業した者がみんな集団就職で関東圏に住んでいるわけではないが、関東圏に生活拠点を構えている同級生が結構いる。中には交友を拒否する人もいるが、生れてから15年育った郷里を想い出しながら方言丸出しで話し合える同級会は楽しみの一つである。

 今回は8人の参加だったが、連絡の取れる人はほかに7~8人はいるらしい。卒業時の同級生は40人ほどだったからかなりの人が関東圏に生活拠点を築いていることになるだろう。その同級生がいま後期高齢者となったわけである。

 入学当時の中学校は村立だったのか町村合併後の市立だったのか定かでないが、その前後にとても町の形などない「村」が「市」になってしまった。というのもはっきりと覚えているのは当方が住んでいた集落に電気が届いたのは中学2年生の時であった。それまでは夜の明かりは灯油のランプであった。今ではそれも懐かしい想い出である。

 同級会では、その頃の想い出よりも、いまの健康状態やこれからのことの話題が盛り上がった。その一つに”郷里に老人のためのグループホームを作ろう”ということだった。それには訳がある。限界集落が消滅集落になりつつあること、したがって土地が安く入手も可能かもしれない、近くに市の福祉センターがある、ホームにより定住者が増え村おこしに役立つ~といった夢である。しかし、今は元気な人が考えているが3年後に元気でいられる人が何人いるだろうかと、現実をぶつける声が聞こえてくると、今までの笑い声も真顔に戻ってしまう。

 でも、後期高齢者になって夢のような話で盛り上がっていることが健康的かもしれない。実際に欠席した彼は脚や腰の痛みで遠出ができない状態という。また家族の看病に時間を費やす人もいる。それが同世代の現実であるのだ。

映画「母」を鑑賞しました

日記

 2月28日、知人に誘われて映画「母ー小林多喜二の母の物語」を鑑賞しました。ストーリーも演技も素晴らしかったが、それよりも驚いたのは立ち見の人があふれるほどで主催者は急きょ上映回数を増やすことを発表したことだった。この人気ぶりは何なんだろうか。

 タイトル通り、小説「蟹工船」などで知られるプロレタリア作家・小林多喜二(1903~1933)本人ではなく、彼の母親セキさん(1873~1961)の生涯を描くのが内容である。*映画でセキさんの生没は定かでなかったような気がするので当方の推定である。

 セキさんは、秋田県の片田舎に生まれ、15歳で小林末松と結婚する。幼い子供らを連れて家族で北海道小樽市に移住する(1907、多喜二4歳の時)。小樽では菓子屋を営み生計を立てる。そのころ、腹を空かした子供らが時としてパンを無断で持ち逃げすることがあったらしい。だがセキさんは「仕方ないこと」と子供等を責め立てることはなかったらしい。

 そのような家庭で育ったせいか多喜二ら兄弟は一生懸命に勉強し、多喜二は大学を卒業し地元の銀行に勤める。学生のころから小説を書いていた多喜二は社会主義思想に傾倒するようになり、銀行員としてもその志を持ち続けた。特高が銀行まで押し掛けるなど多喜二は退職に追い込まれ、小説家を目指して上京(1930)する。

 このころは、第1回普通選挙(1928)が実施されるとか、いわゆる3・15事件(共産党大検挙)が発生した。そして1931年には満州事変が発生する。多喜二が「蟹工船」を発表したのは1929年とされる。そんな中1933年2月、治安維持法特高に逮捕され、その日のうちに拷問、虐殺される。

 このころセキさんも東京で生活していたが、遺体を前に「警察は人を殺しても許されるのか」と怒り悲しむ。この気持ちは人間に共通するものと胸に突き刺さった。幾多の悲しみを背負いながら、娘の勧めで教会にも顔を出し、晩年を迎える。 

 母を演じたのは寺島しのぶ。多喜二は塩谷瞬、他に佐野史郎徳光和夫らが出演していた。監督は高齢の山田火砂子。原作は三浦綾子

 この日の上映会は、午後と夜の部の2回、400人収容のホールで開かれた。当方が到着したときすでに満席で、やむなく通路に座り込んだ。それでも客は押し寄せたため主催者は、2回上映予定のところ3回上映を決断したとアナウンスし、あふれた観客を鎮めていた。

 これだけの「母」の人気の背景は何なんだろうか。時代背景を身近に感じている人が増えているであはないだろうか。そんな感想を知人に伝えた。

 

 

速足散歩2月は18回

日記

 早いもので今年も2月が終わってしまった。きょうから3月である。

 毎日心掛けている”速足散歩”だが、2月は18回(日)にとどまった。

 2月は日数が少ないのと「春一番」そして「春二番」、さらに「春三番」と風が吹き荒れたために気分ものらず散歩を休んだことが響いた。もっとも”何が何でも歩く”といった決意があるわけではなく、天気や気分で歩くというのが私流の歩き方である。回数が少ないからと言って嘆いているわけではない。

 これからは春らしい気候が強まるだろうから気候らしい気分で回を重ねたいものである。強いて言えば健康のために。努力しよう。

 

春二番のあらし

日記

 ここはいま「春二番のあらし」に見舞われている。

 春いちばんが吹き荒れたのは17日だった。これは昨年に比べると3日遅れだという。このころ近くの公園では河津桜が満開となった。その前にボケが開花した。さらに1月末には河津桜と白梅が開花していた。例年より早い感じがするが記録がないので定かではない。河津桜満開の風情をもう少し楽しみたいのだが、あらしで楽しめる時間が短くなるかもしれない。残念。

 それと、今まで聴きなれなかった「春二番」のあらしには驚かされてしまった。

 穏やかな春を迎えるための大自然のうごめきと自然に従うことが肝心だろう。