集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

速足散歩10月は19回

 ウエイトコントロールのためにと始めた”速足散歩”は今月19回(日)に達した。この散歩を始めたのは7年ほど前かと思う。肥満だった当時”健康増進”をぼんやり考えていた。何かの会合で、看護師さんが「速足で20分以上歩くのが一番」と話したのが頭に残っていた。しばらくして早朝に1時間ほど歩くことにしたのが始まりである。

 心がけは、速足で1時間歩くこと。天候が不順だったら無理をしないこと。もちろんわが身の調子が悪い時は思案することなく休止すること。ま、いい加減ともいえる”速足散歩”の始まりである。継続は力なりーで、のちのパート仕事と相まって、脂肪太りが少し削げてきた。しばらくぶりに会う人は「どこか悪いのですか。随分とほっそりしたようですが?」と言ってくれるほどになった。当方は「いたって健康です。一生懸命絞っているんですよ」と、散歩の効果を説明した。

 とはいうものの、今年は夏の間”暑さ”を理由に中断していた。10月になってようやく再開したわけである。この10月、前半は半そでシャツで散歩できたのに後半になるとジャージを羽織るほどに気温が下がってきた。この気温差でウエアと体温コントロールが悩みの種だが、無理せずを貫き19日も歩いたことは”努力賞”と言って良いと思う。

 いわゆる”夏太り”を削ぎ落としながら健康維持のために、寒さに向かって”速足散歩”を継続したいものである。

 

「和綿」を栽培してみたい

 10月24日の朝日新聞に「『和綿』で知る豊かさ」「国内で復活の動き広がる」という記事が掲載された。ここではあえて「綿」ではなく「和綿」が主役のようである。

 いま「綿」と言えば、ベイメン(米綿)とかインドメン、エジプトメンなどがよく知られていると思う。やや高級になるとギザ45とか繊維長の長い新疆綿(シンキョウメン)など一般に超長綿と言われるグループがある。さらに”繊維の宝石”ともいわれる「シーアイランドコットン」(西印度諸島海島綿)もある。

 記事によると、綿花はわが国でも江戸時代までは各地で栽培されていたという。その後ほとんどが輸入品(綿花)に置き換えられ、栽培は影をひそめてしまった。綿の中でも「和綿」と呼ばれる種類は、繊維長が短いため機械紡績に向かず、綿紡績が盛んになると輸入綿花に押されてほとんど見られなくなった。

 そうしたなかで、綿花栽培を復活させようとする動き、なかでも「和綿」の特徴を栽培から初めて製品まで作ろうという取り組みが注目されているという。どうも綿花栽培はわが国の気候でも大丈夫のようである。特に「和綿」の場合、機械化と輸入品に太刀打ちできなかったためのようである。

 気候に問題がなければ綿花「和綿」を栽培してみよう~そんな気持ちが湧き起こるのも無理ではない。綿花はそれほど肥沃な土壌を必要としないらしい。プランターでも可能という。ならば手始めにプランター栽培から初めて野菜畑へと広げてもよかろう。あとは収穫した綿花・コットンボールの買い手を探すことだ。

 そんなうまくゆくはずはない。うまく進展するかどうかではない「一から始めること」と言い聞かせながら取り組んでみたい。

 

想い出の写真届く

 夜間定時制高校の同期会が開かれたのは16日、日曜日。

 幹事の奮闘で21日には、記念写真・ワンカット写真が届いた。写真で改めて参加者の顔を思い出しながら50年以上も前の夜間高校時代を辿った。というのも送られてきた写真の中にモノクロ写真2枚が入っていた。それは確か高校2年生か3年生ころのものだと思われる。1枚は江の島辺りでの海水浴での記念写真。もう1枚は校外活動?でのワンショット。今回の同期会に参加できなった人の顔も見られる。なかには事情あって転校した彼の姿もある。実に懐かしい記録である。

 写真の返礼にと思い、卒業時の担任が謄写版で手作りした”クラス名簿・作品集”が手元にあったので送ることにした。卒業者全員が先生の求めに応じて俳句やら短歌を提出することになり、それを作品集として先生から卒業生に送る形となったものである。先生の求めに応じて創作しなかった者は名前だけを記録する”クラス名簿”となっているのが特徴でもある。ちなみに担任の先生は夜間定時制高校を卒業して教職に就いたらしい。その経歴を知ったのは作品集をしみじみと読んでからのことである。

 これから16日に参加した18人にこの文集を送ろうと思う。

 参加できなかった人も含めて全員の健康を祈念する。

 感謝である。

 

夜間高校時代の印刷所を探す

 同期会の帰りに17歳から7年以上お世話になった印刷所のあった街を尋ねることにした。最寄駅から都電通りを通り越して直進すると交差点に差し掛かる。少し手前の右側に車の通れない路地があり、その奥に印刷所はあった。今どうなっているだろうか。道筋を確かめながら進むとなんとなく思いだした。

 随分と変わってしまった。それもそうだ。もう50年以上も前のことだからそのまま残っているはずもないだろう。丹念に歩いてゆくと当時印刷所の代表者(旦那と呼んでいた)の表札を掲げた私邸が見つかった。確かにここに印刷所があったのだと確認できた。しかし、当時は工場の前にリヤカーが入れたし、しばらくすると軽トラックも入れた。それが現在は軽トラなど入れる広さがなく狭い路地になっていた。しかし曲がりくねった路地は当時のままであった。

 ちなみに、当時若い者同士で活字を貸し借りしていた裏側の総合印刷会社は今も営業しているようであった。会社の入り口角地には古風な創業者私邸が健在であった。だが表通りに面した図書館はなくなり公園になっていた。

 ほかに近くにあった紙器工場や製袋工場、自動車学校なども訪ねたかったが時間が遅くなり探訪を切り上げた。50年ほど前の道筋は変わりない模様だったが建物や風景が様変わりしてびっくりしてしまった。

同期会近況報告~人生いろいろ

 同期交遊会の中ごろ近況報告の時間があった。人それぞれのいまを聞いていると52年前を思いだしても想像できないほどである。

 ある人は、息子が警察官に、娘が市役所に務めており家庭的に恵まれて幸せに過ごしていることを話していた。1年遅れで入学したという男性は、務めていた小さな商社を停年退職したのち65歳で初めて結婚したことを明かした。今は近くの公民館でパソコンと書道の上達に時間を割いていると楽しそうだった。また家業を引き継いだ彼は、駅前の区画整理から外れたために上手に移転できなく今でも同じ場所でカバン製造業を引き継いでいることを話した。

 親しかった友人は、趣味の釣りの話をした。なかなか珍しいそうだが「いしだい」を釣り上げ、その模様を愛読新聞「赤旗」に投稿したという。その話に「赤旗」は俺も読んでいるよーと2~3人が応じていた。

 のどの病気で卒業できなかったが親しい友人がいるので毎回参加しているという彼女は「私からマジックを取ったら何も残らない」と人生の支えを話しながら簡単なマジックを紹介してくれた。近々にマジックのショーを開くそうである。どうやら福祉施設などを巡ってマジックを披露している模様だった。機会があれば招待したいものである。

 幹事の一人は、現役を退いてから”食っては寝る”ような毎日を過ごしており「何か仕事を与えてほしい」と受け取られるような生活らしい。どうも気がかりになった。一つ年上の彼は、かわいい孫たちのいまと自宅の階段を100回上り下りしながら健康づくりに励んでいると話していた。当方は、午前中パート仕事をしながら、健康のために速足散歩1時間と野菜作りに精を出していることを話した。 

 家業を子供たちに任せて、購入した別荘に行き来する日々を紹介した女性もいて頼もしくも羨ましくも感じた。

 たのしい近況に感謝です。

 

定時制高校同期会~52年ぶり再会も

 10月16日(日)定時制高校時代の同期会が開かれた。卒業生50人ほどのうち参加者は19人(うち女性3人)だった。案内に対する欠席連絡は男性6人、女性6人だった。つまり31人とは連絡しあえる状況ということになる。

 同期というのは1945年生まれの世代のことである。御年71歳ということになる。ということだろうか幹事たちの開会あいさつは、喜寿、傘寿、卒寿まで同期会を重ねてゆこう。それまで皆元気に過ごそうといった内容だった。幹事でもないのに乾杯の音頭が当方に割り当てられた。乾杯の音頭は8年前と2回目である。多分幹事と比較的仲が良かったせいだろうと理解している。当方も4年ぶりの同期会であり、52年ぶりの再会であることに触れながら白寿を超えるまで同期会を重ねられるよう楽しい交遊会にしましょうと音頭をとった。

 参加者19人のうち、当方は52年ぶりに再会する人が2人もいた。それ以外の人は4年前の前回、8年前の前々回に会っている仲間たちだった。名前はわかるものの顔を想い出して一致させることはなかなか難しいことである。

 それでも52年以上も前のことを探りながらわいわいガヤガヤとした同期会3時間を楽しく過ごした。その後皆はカラオケへ繰り出した。

60年前の話題で盛り上がる同級会

 8日(土)正午から東京で、わが故郷の中学校を卒業して関東圏で生活する者の同級会が開かれた。参加者は9人で、欠席者は5~6人だった。この会合はほとんど毎年開かれているが、他に1年おきに郷里でも開催している。郷里では20人ほどが集まるうえ継続していることが話題でもあるのだ。

 昨日の参加者の顔ぶれを見ると、男5人、女4人。男性一人は現役の商店主。ほかにパート仕事と畑づくりが1人。ほかは年金暮らしと孫の世話が楽しみな男女ジジ、ババたちである。欠席者の1人は、孫の運動会のためであった。もう一人は親戚の不幸ということであった。さらに中学時代には最も健康的な身体が印象強かった彼は、術後の体調不良が欠席理由だった。ほかにも健康状態を理由にする人がほとんどである。つまり参加できるということは比較的健康状態を保っている人ということもできる。

 当方は昨日、同級生クニヤの印象が強く、彼と思い出話を重ねた(づなった)。当方は中学校まで山を越えながら片道2時間かけて通った。もちろん当時電線は引かれておらず電灯もラジヲもなかった。クニヤは村の中心地にある鍛冶屋の息子であった。この地域では3年ほど前から電気が使えるようになっていた。だからクニヤは大相撲の実況放送をラジオで聞いていた。彼は学校に来ると機会あるごとに横綱相撲の模様を実に見事に再現して注目の的になっていた。横綱鏡里とか大関・松登のころだった。ラジオ放送を聞いたこともない当方は”関心し驚くばかり”であった。

 そのクニヤは、勉強するよりもよく動き回り”しゃべりながら笑わせる”ことが得意だった。中学2年生の時だったと思うが、音楽の時間にクニヤたちが新任女性教師の言うことも聞かず音楽室で騒いでいると、とうとう先生が「泣き出してしまった」。その模様を話したがほとんど記憶がなかった。

 同級会の帰りにみんなでカラオケ店に入った。歌うのは男性のみであったが、クニヤは随分と古い流行歌を歌っていた。やはり当方の頭の中には「音楽の時間に先生を泣かしてしまった」人のイメージが渦巻いていたが、少年時代を60年も引きずる自分が恥ずかしくなってきた。

 セイジは3年生のころの学芸会で独唱を披露したことがある。その声量は今でも引き継がれていることをカラオケ店で確認できた。あの商店主も故郷思いが強いのか”童謡”を多くリクエストしていた。中学時代3年間の性格がそれぞれ見え隠れするひとときが楽しい1日だった。