平成時代”トリクルダウン”はなかった
過日のこと朝日新聞「オピニオン」面のインタビュー記事を興味深く読みました。記事は「財政の機能不全」について元地方財政審議会長に聞くというもの。興味深くと言っても難しい話なので理解など到底困難であり、断片的に解釈でしかない。
例えば「本来の財政とは、社会に生じる様々な困難を解決して、国民を幸せにするもの」だそうである。なるほどとうなずく。ところがである、平成時代の財政は「人々を不幸にしてしまった」という。ちょうど、年金が急減した上に物価上昇、秋の消費税率引き上げ予定など考えると、庶民としては「不幸に」追い込まれたのは「財政」のせいなのかと納得したわけ。
ここはよく理解できないが、90年代「後半以降は政府が構造改革の名の下で進めた政策減税」が税収を落としてきたらしい。それが「不幸」の源のようである。その減税というのは「上げ潮政策」と呼ばれた”減税による経済成長の実現”という財政運営らしい。奮闘努力した企業や社員が報われれば次第に「低所得者層にも恩恵が行き渡る『トリクルダウン』が起き、税収も増えるという算段」だったそうである。
ところが、大企業や高所得者に減税しても「経済は成長せず、税収は下がる」結果となってしまった。とても”下層に滴り落ちる”ことはなかったようである。しかし”経済成長のためにもっと減税を”との政策が続いたらしい。
それが現在へ尾を引いているのかもしれない。低所得層庶民がしわ寄せを受けている構図のようである。そこで偉い方は「政策形成能力がある野党が育たなかったため」とおっしゃる。その野党を育てるのは選挙権を持つ国民ということになるでしょうか。財政運営で「不幸に」追いやられた庶民も少しだけ賢くならなきゃいかんということか。
ジャガイモの芽が出ました
じゃがいも「メークイーン」(種イモ1キロ)を3月18日に植え付けました。
約1か月後の4月17日の成長の模様です。まずは順調に育っている様子にほっとしました。よその畑を眺めると新芽の成長はもっと早いようです。少しばかり種まきが遅かったのかなと反省しています。
ほかにも「キタアカリ」(1キロ)と「ピリカ」(?1キロ)を植えましたが、まだ半分も芽が出ていません。畝の土が盛り上がっているので成長ぶりを伺うことができます。
気候が暖かくなってきましたので成長が早まるでしょう。楽しみです。
兄の3回忌と桜の開花と
4月13~14日、兄の3回忌・兄息子の7回忌の「法要」で福島県の真ん中ほどに行ってきました。法要といっても、村の旅館に生存中の兄弟姉妹が集まって想い出を語り合うごくごく身内の食事会といった感じ。もちろんお坊さんのお経などはありません。
兄は1昨年10月にアルツハイマーで病院で亡くなりました。兄の長男は6年前の4月末に心臓発作で亡くなりました。40代ながら独身で素人音楽活動に熱心でした。そんな2人を想い出しながら食事会で「法要」を済ませました。
今回福島県への行路は郡山から磐越東線を使いました。郡山から2つ目の駅は「三春駅」です。三春といえば桜の三大名所「滝桜」です。この地域の桜は咲き始めたばかりなのに観光客は多く「三春駅」での乗降客が多いことにはびっくり・驚きでした。その先にも「千本桜」といった桜の名所があるようですが、その地域はまだつぼみさえ色づいていませんでした。ことしの花見は「少し早まるかも」といった話でしたが、13~14日時点では「開花はいつになるだろうか」といった感じでした。
3月の散歩は24回でした
高齢者になると「月日の流れがどうして早くなる」のでしょうか?。早いもので4月新年度になりました。まあ生活に変化はありませんけどね。
月が替わるたびに振り返っている「速足散歩」の回数ですが、3月は24回でした。まあ頑張ったということでしょう。月始めに雨の日が続いたために休まざるを得なかった。その影響が3月の大きな理由です。
この年齢になると、日々の気温の変化が身体に影響する。3月の月初めとか最近の花冷えによる「変調」は随分と応えるようになってきた。身体の変調を上手にコントロールしながら「健康で元気」を続けてゆこうと思う。
「改元」をひも解き楽しむ
「改元10連休」がマスコミで賑やかである。伴って天皇制に関する話題も広がっているようだ。なかで「元号」とか「年号」と「天皇」との関連の歴史をひも解くとなかなか楽しめそうであると感じた。「そうだったんだ」と教えられることも多い。
正直「元号」などに興味はなく、どちらかというと西暦年号を使うことが多かった。むしろ書類作成の際に「元号」を強制されて困惑することが多かった。
そんなため、古くを想い出しても明治、大正、昭和しか思い出せない。しかもそれぞれ何年続いたかなど手帳の裏を見ないとわからない。
そこで、江戸時代最後の天皇について調べると「孝明(こうめい)」と分かった。この天皇は20年ほど在位したらしいが「元号」を何回も改めて使ったようである。例えば「安政」、「万延」、「文久」、そして明治直前の「慶應」などである。これを見ると天皇の名称とともに「元号」があったことがわかる。
ところが「明治」になると「元号」と「名称」は同じになっている(平成も同じである)。これは明治元年(1868年)に「1世1元」を定めてからだそうである。江戸から明治に変わった明治維新に伴うものでしょうね。
そうなんだ。ということは明治以前は天皇がある意味で自由に「元号」を変えることができた。反面天皇が変わっても「元号」を変えない時代(時期)もあったわけだ。天皇が4人も変わったのに「元号」は変わらなかった例もあるそうだ。「改元」時期も天皇が変わってから適当な時期を見てということが多かったようである。
いまのように「改元」が賑やかなのはマスコミのせいだろうか。それとも「為政者」の振る舞いや思惑にあるのだろうか。そういえば1979年というから40年ほど前に「皇位継承があった場合に限り」元号を改めるという決まりができたそうである。それも「政令」で決めるとなったそうだ。
ここで登場する「皇位継承」とは、少なくとも明治以降は「天皇が亡くなったとき」行われた。ただ今度の「皇位継承」はいわゆ生前退位であり、専門家を含めて想定していなかったそうである。しかしその思いを「承認」した形をとったことになる。今後も事例として残ることになるだろう。
天皇(皇族)には、庶民のような「姓」(苗字)がない。それでも何も不自由はないようだが、「後続離脱」のような「自由」が認められたなら「姓」も必要となろう。そんな心配をすることもないのだが~。