集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

経済成長よりも幸せ度が大事では

 先の新聞コラムに「やはり経済成長は大事だ」が掲載された。最近「経済成長」についてさまざまな意見が出ており関心をもって読んだ。

 例えば「豊かなはずの日本で貧困問題があるのは、20年以上にわたる成長の停滞のせいだ」。または「今の生活が豊かだとしたら、それはまさに経済成長のおかげである」。さらに「お金がなければ社会保障も医療も教育も享受することができない」など、本当に言葉通りに信じてよいものかな~と考えさせられた。

 コラム氏は、経済成長率が下がると失業率が高まるために「貧困」が増えるということらしい。そうかもしれないが「相対的貧困率」とかいうのは少し違っているのではないだろうか。また「今の生活が豊かだ」と感じる人。教養や芸術、娯楽を楽しむためには相応の金銭負担が必要であるが、それは経済成長のおかげであるという。生活の豊かさも「経済成長」あるが故かもしれない。だが「生活が豊かだ」と感じている人に当てはまることでしかないだろう。「お金がなければ」というのは、家計の話ではない。それは国家財政、つまり税収のことであろう。 

 このコラムは「経済成長」を主題にまとめてはいるが、一方で「貧困」や「豊かさ」、「社会保障」などにも触れながら「経済成長」の大事さを強調している。当方はそれらに対抗する専門知識を持っているわけでもないので、庶民の日常生活感覚でメモするだけである。

 感じるのは「経済成長」最優先で自治体や国が政策判断すると兎角問題になっている「貧困と格差」は二の次、三の次そしてずっと後でちょこっと触れるだけになりそうで仕方がない。コラム氏も触れているように「貧困」や「豊かさ」または「社会保障」などを考えるなら、経済成長率の低さを嘆くよりも、現実に大問題となっている「貧困と格差」の問題をどのように改善し、絶対的な”飢餓状況”にある世界の人々を救済できるかを考えるべきではと思う。その点抜きに「経済成長」を語ってほしくない。

 「経済成長」がマイナスやきわめて緩やかであったとしても、「貧困」の改善や「社会保障」の充実は可能だろう。そうした制度を作ることこそがコラム氏のような活躍者や為政者たちの任務だと思う。8人の富豪者と世界の人々の話題を真剣に考えてほしいものである。

自転車走行、車道はなぜいけないのか

 自転車走行に関するきょうのできごとです。

 買い物のために大きなスーパーに自転車で出かけました。地域事情から車1台がやっと通れる道幅を利用するのが便利なところです。この道路は国道から横に入ったいわば抜け道の感じです。ところどころでヒョウタンのくびれのように道幅が狭くなる個所があります。

 たまたまきょうは、そのヒョウタン首を自転車走行中に後ろからくる車にクラクションを鳴らされました。おそらく”車道走行は危ないよ”といったクラクションだろうと思いますが、当方は腹立たしく思い「この野郎!」と声を荒立ててしまった。運転手の年齢・性別は確認できなかったが、車の通る道を自転車走行しては危いよと警告したつもりかもしれない。なぜいけないのか?

 しかし、この道の事情をよく知っている当方にしてみると、ちょっと先の信号のない5差路交差点は、歩行者・自転車・クルマともに慎重確認しながら通行せざるを得ない地点であることを承知しながら走行している。なのにクラクションで警告するとは何事か。車自体が慎重運転してほしいと警告したいほどである。

 また、学校近くの公園脇の道路には通学歩道が設けられている。歩道と言っても側溝にコンクリ板を乗せた程度のものである。たまたまジョギング中にこの歩道を自転車がやってきた。当方は当然ながら藪側に身を寄せて自転車走行を見送った。

 おそらく自転車利用者は、車道走行は危ない感じがするので歩道を優先したのだろうと思う。学校付近だけに狭い通学路の自転車走行をとがめることもできないのが現状ではないだろうか。

 標語「自転車ものれば車のなかまいり」を読みながら、自転車走行の立場を考えている。考えこむと”夜も眠れないくらい”である。

日帰りバス旅行で三浦三崎港へ

 16日は、三浦三崎方面への日帰りバス旅行を楽しんだ。

 川崎大師、横須賀港の軍艦「三笠記念館」、三崎港での昼食と散策、城ケ島公園の散策が行程の楽しみどころ。寒波襲来で冷え込みは非常に厳しいものの天気には恵まれた1日だった。城ケ島では富士山をくっきりとみることができた。またあちらこちらでバスの窓から富士山を眺めることができた。見慣れない海沿いの工場地帯を眺められたなど楽しいバス旅の1日を過ごした。

 なかでも、三浦三崎港では、地元に嫁いでいる中学校時代の同級生に会えたことである。1年ぶりの再会だが郷里の想い出などざっくばらんの話ができた。同級生の案内で土産物を買ったが彼女の一言で高価なマグロをおまけしてもらえた。ほかに彼女からは感謝しきれないほどのお土産までいただいた。ただただ感謝、感謝の再会であった。

 いずれの見学地も初めて見るところであり、もっともっと時間がほしかった気がする思いが強い。バスの旅程もほとんど予定通りであり満足できる日帰りバスの旅であった。

自転車走行は車道か歩道か?

 新聞の投書欄に中学生の『「自転車は車道」のはずなのに」』という意見投稿が掲載されていた。投書は、車道を走行中に後ろからくる車にクラクションで注意されたことから、自治体、行政に理解を求める方法などを提案している。

 パート仕事で自転車走行が比較的多い当方も”はてな”と思うことがままある。最近のこと幹線道をまたぐ陸橋に「自転車ものるときは車のなかまいり」との横断幕が張り出された。ということは自転車走行時は「車」扱いになるので車道を走りなさいーとも受け取れる。どうだろうか。

 ある地域へ行くと、歩道を色分けして自転車と歩行者の通行を分離している例もあるが、そんなにゆとりのある歩道があちらこちらにあるわけではない。また車道に色分けで自転車走行レーンを設けている例もある。さらには車道走行を容認していながら先へ進むと歩道走行を促す表示が出てくる例も見かける。

 ところが、学校近くの片側1車線道を見ると安全のために歩道用柵が設けられている。柵は当然のことだが、車道が狭いうえに自転車はどこを走ってよいものか迷ってしまう。歩道の危険性よりは車道走行を選ぶのだがカーブなどは前後の車が相当気を使っていることがわかる。当然といえば当然である。 

 問題は、自転車走行の基本が道幅を含めた地域事情に任されているような世情にあるような気がする。近年自転車走行に関連する事故が増えていることから関係部署がいろいろ手を尽くしているようである。だが、関係部署も自転車利用者にも現実がよく理解されていないような気がしてならない。

 人は右側・車は左側~~といったような、わかりやすいルールが定着することを願っている。

 

公園清掃活動を楽しく継続

 5年以上前から続けている”公園清掃”の定例活動に参加した。

 以前住んでいた近くの公園に許可を得て花壇を作り始めたのがきっかけだった。間もなく別のグループも花壇を作り始めた。花壇づくりだけでなく合同で植栽の剪定や清掃もやろうということで市の担当者と話していると、「清掃協力団体」に登録し、協力金を出すということになった。協力金を受け入れるために口座開設が必要になり、なんとなく代表者になった。

 それから3年ほどになる。今では毎月2回の”公園クリーンデー”を設けて公園清掃に取り組んでいる。一定の日時を設けてはいるが参加者の体調や日時の都合で60分ほど活動することにしている。それぞれは日常的に清掃のほかに花壇の手入れなどを行うために誰かが公園を見回っているような状態である。

 公園を利用するひとにも比較的好評である。なかには隣町から手伝いに来てくれる人もいる。また先日はお茶や食べ物を差し入れてくれた他区からの来場者もいた。

 3年前に引っ越して、今では公園まで自転車で30分かかる。それでも花壇づくりと公園清掃を続けているのは30年ほど住み続けた地域の仲間たちと出会えるからだろうか。公園では、毎年近隣の方々が楽しみにしている夏祭りが盛大に開けれる。その公園の一角で様々な花が楽しめるというのも公園の良さである。その環境を維持する活動だとも思う。

 いま住んでいる町の近くに小さな公園があり同じような活動を始めた。当方は清掃が主だが、近所のおばさんは花壇づくりに熱心である。当方は市に届け出ているがおばさんは無届で勝手に活動している。この不規則な活動をどこかで公認の活動に切り替えなくてはならない。そんな1年になりそうだ。

 ことしも、公園での花壇づくりや清掃活動を楽しく継続しようと思う。健康のためにも。

原発事故の賠償を利用者転嫁は許さない

 朝日新聞5日付の「ザ・コラム」が「原子力の費用負担 未来へのツケ説明できるか」の記事を掲載した。興味深く読んでいて、とても落ち着かない「イライラ感」を覚えた。許せない。誰がどのような説明をしようが俺は許さない。

 あの大震災で福島の原発が爆発を起こした。放射能をまき散らしたために住まいを追われ、いまもって帰れない人々がいる。

 昨年末には福井県にある「もんじゅ」(高速増殖原型炉)の廃炉が決まった。廃炉というが「炭を焼いていたカマをやめる」のとは違う。失敗したのだからこれまでの投資経費をどのように評価するのか。それだけでなく「核燃料のサイクル」構想をどのように評価するかなど様々な問題をはらんでいる。

 ところが、これらの取り返しのつかない費用、またはこれからの被害が増えるだろう賠償経費などを電気利用者に負担させることを政府が決めたらしい。 

 とんでもない、誰がどのように手を尽くして説明しようが俺の理解を超えている。許すわけにはいかない。政治家とか経営者と言われる人たちを許せない。どうにも許せないのだ。

路線バスの旅というものの

 我が家で観るテレビ番組は、料理、小さな旅、自然などが人気である。

 旅番組でも「路線バスの旅」を観る機会も多く、我が家でも出かけてみようということになった。もちろん財布と時間との兼ね合いが大きな問題だが、近場の路線バスに乗って出かけることにした。計画らしい計画はないが、ほとんど出かけたことのない駅近くのショッピングセンターを目指すことにした。

 とりあえずの目的に到着して買い物のあと、次の路線バスを探すと私鉄駅を目指すバスが来たので乗る。途中の駅で電車に乗り換え、駅ビルショッピングセンターを目指した。さすが、初めて訪ねる駅ビルショッピングセンターは正月でもあり賑わっていた。昼飯もおいしく満足した。ここまでは順調だったが、我が家に向かう路線バスが見当たらない。全くゼロではないが、待ち時間が長いことと遠回りになることからタクシーを利用して最寄りのバスターミナルにたどり着き、再び路線バスで始発点に戻った。

 路線バスの旅とはいうものの、電車やタクシーまで使ったのだから趣旨に反していること間違いなし。次回はゆとりをもって路線バスを乗り継ぎながら始発点に戻ろうと思う。楽しいひと時であった。

 その後、日課ともいえる「速足散歩」1時間をこなした。3日坊主に終わらせないよう努力しよう。