集団就職と紡績女工
いま仲間たちと世界遺産「富岡製糸場」をめぐるバスツアーに取り組んでいる。
すると奇遇にも「紡績女工」にまつわる話が飛び込んでくる。22日付の朝日新聞は「寅さんを探して」の記事を掲載している。その話題は、新潟から「紡績女工」として「集団就職」する少女たちに、寅さんが「元気でな。しっかりやるんだぞ」と励ますシーンを振り返る。
後期高齢者の当方は、1957年春「集団就職」で上京した。出発の駅のホームでは似たような風景が見られたことを想い出す。当時の卒業生は40人弱だったが、女子4人が北陸石川県の紡績工場に就職した。うち2人は現地に定着し、ときおり元気な便りをよこしてくれる。あれからもう60年以上が過ぎてしまった。
いまひとことで「紡績女工」というが、富岡製糸場ができたころは、良家の子女を集めて技術研修したこともあって「工女」と呼ばれた。フランスから招かれた指導的技術者は「女工」と呼ばれた。当時官営工場では「技女」が使われ、その後製糸工場では「工女」、紡績工場では「女工」が使われるようになったらしい。また戦前政府は主に労働者を指す言葉として「職工」を使っていた(「飯島喜美の不屈の青春」玉川寛治著を参考にしました)。職種のよび方にも政治的な意味合いが込められていた様子がうかがえます。
同書によると、1957年ごろの話として、少女たちの「女子寮」は「居室は15畳の居室部分に3畳の小部屋」がありそこに9~10人が生活していた。労働基準法は「1人当たり1・5畳」としていたが、戦前と変わらない劣悪な条件で働かされていた。あの有名な近江絹糸のストライキは1954年のことですから、その後の模様・実態が理解できます。そうしたなかでサークル活動が活発になり60年安保闘争が準備されたたそうです。
そのころ当後期高齢者は社会の右左がわからない18歳ごろでしたね。