集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

1965年の研究部活動

 思いがけず夜間大学に入学できたのは1965年だった。いわゆる新歓行事で資本論を読めるというので研究部(サークル)に加入した。

 この年を想いおこすと、大きな事件として米軍がベトナムの北爆を開始した(2月7日)ことが挙げられる。この事件は、当方の人生を定めた大きな出来事となったのだがそのことは別の機会に譲る。米国がベトナム戦争を激化させるなか、ご存じ「べ平連」が初めてデモを繰り出した(4月22日)。このように米国によるベトナム戦争反対の動きが盛り上がりを見せた。

 同時に、日本と韓国の基本条約日韓条約が調印された(6月22日)が、これに反対する勢力もあり、デモ行進が何度も繰り返されていた。

 沖縄では1960年に沖縄復帰協が結成され、沖縄の祖国復帰運動が動き始めていた。その運動が「本土」でも取り組まれ、ときおり集会やデモ行進が行われていた。そうした積み重ねが1968年の首席公選で屋良朝苗氏を当選させることができた。

 このような政治課題が学生生活の中でも活発に議論され、研究部員の決議のような形で街の抗議集会やデモ行進に参加することもあった。なかでも沖縄復帰闘争では「沖縄を返せ」の歌を歌いながらデモ行進したのを想い出す。そこには願いを共有する連帯感が強く感じられたのだった。

 時間と月日はのちになったけど、ベトナムの南北は統一され平和が戻ることになった。沖縄も1972年5月に祖国復帰を果たすこととなったのである。