集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

「死ぬまで働く」は最良の人生

 高齢者の貧困実態は様々な形で取り上げられている。最近『続・下流老人』(藤田孝典著、朝日新聞出版)を読んだ。この本は、高齢者が「死ぬまで働かざるを得ない」現実を告発し、それを解消するため様々な政策を提言している。高齢者の現実をまとめた著作として「あっぱれ」と申し上げたい。

 下流老人の仲間として、「死ぬまで働く」ことは老人人生の最善だと思う。もちろん”後期高齢者”となったら「悠遊自適」とか「優雅な余生」が送れるならそれは幸せだろうと思う。単に願望ではなく富裕層では何ら心配などなく「優雅な余生」を楽しんでいる方々がおられることだろう。羨ましい限りである。

 「下流老人」に組み込まれない<候補老人>であっても、今と今後を生きるために「働き続けている」のが現実である。そしてほとんどは「働ける間は働こう」と考えているのだ。それが最良の人生ではないだろうか。

 考えてみよう「働ける」ということは「働きたい」という意思も必要だが何よりも「健康」でなくてはならない。だから「健康」の間は「働きたい」のだが、職場「雇用主」があるかが問題になる。高齢者雇用の開発は本人だけでなく行政も心掛けてほしいものである。

 「死ぬまで働く」(かざるを得ない)現実は、政策的な貧困であるのは当然すぎる。そうした現実の中で老人は「働ける間は働き」さらに「働きながら昇天できる」ことが最良とも考えるのだ。つまり「働けなくなった後の暮らし方」を考えたら、いかに他人の助けを借りながらの人生になるかわからない。大げさに言えば社会の損失にもなるだろう。

 誤解されては困る。福祉制度の充実や共助の生活を否定するのではない。むしろ実現に向けた奮闘を応援している。だがいわゆる「ぴんぴんコロリ」を願うものとして「働きながら昇天」が最善だと思う。それまで健康を維持することがさらに最善であるということ。