集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

17歳にして印刷工場へ転職

 2月初めの日曜日、住み込みの転職先を求めて小さな求人広告と23区内地図を握りしめて高円寺から北千住へ向かった。ちょうどこの日は17歳の誕生日であった。

 訪問先は小さな活版印刷工場だった。労働条件などを列記すると次のとおりである。

 ▽勤務時間=7・00~18・00。残業21・00まで(残業手当あり)▽休日=第1、第3日曜日▽門限=23・00▽給料=手取り給与2000円(ほかに食事費2500円)。昇給年2回。賞与年2回(但しお盆は少ない)▽社会保険なし(但し従業員5人以上になれば適用する)▽通信教育受講は可能といった条件だった。

 この説明を受けて転職を決断。工場主に雇用をお願いして別れた。

 縫製工場に戻り責任者に転職の決意を伝えると、会社の責任者と相談してくれた。その返事は「親元から預かっているので、親の了解がないと転職を許すわけにはいかない」ということだった。これに対し「強がりを言って」抵抗したが結局は父親に手紙を書き事情を伝えた。父からは電話電報で「自分の考えた通りにしてよい」との返事が届いた。そのことを伝えると転職が了解された。この日も休日でありタクシーを呼んで布団袋など身の回り品をもって北千住の印刷工場へ移った(タクシー代840円はのちに自分で支払った)。

 印刷工場は、住み込み従業員4人(当方を含む)、通勤者1人。ほかに経営者夫婦であった。驚いたのは年下の男の子が煙草を吸っていたことである。前の工場は規律とか規則など生活面では結構厳しかっただけに「これでよいのだろうか」と戸惑うこともあった。

 2月末に初めての給料を手にした。手取り額は2000円だったがプラス200円は貯金に引き当てられていた。前の就職先より手取り額が1000円以上少ないが、手帳には「不満なし」とメモしている。早速翌日の日曜日には工場近くにある床屋に行き初めて髪を伸ばすことにした。