集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

会社は倒産していたんだ

 就職2年目の春、中卒の男子4人ほどが就職してきた。1年間でどのような技術を身につけたかは別にして”先輩”の立場になったことは確かである。

 このころ私は、大学受験資格が得られるという民間の通信教育(本部・東京上野)を受講していた。受講生で作っているサークル「文学部」に所属し、休日などはこの文学部の仲間たちと遊んでいた。

 この年(1968年)夏過ぎまでは先輩たちに文句を言われながらも大きな変化もなく過ごしていた。それが秋になると何やら大きな変化が進んでいったのである。というのはこの変化は16歳の私にはどのようなことなのかわからなかった。

 同期の仲間が下請け他工場に移転(籍)された。本社の専務という人が乗り込んできた。仕事の内容も紳士服製造のほかにベビー衣料も縫製するようになった。退職する従業員も出てきた。ついに工場を一部改造して専務家族が住むことになった。工場改装の間2カ月ほど阿佐ヶ谷に仮住まいすることになった。新装なった工場には少年従業員のため2段のベット棚が作られていた。工場内に浴室も作られた。6畳間と押し入れで何人もが寝ていたことを考えるとベット棚は大きな改善であった。

 こうした変化がどのような背景で行われたかを知ったのは、数年前のことである。あの年金記録の照会が手元に届いたときに確認できた。つまり1958年夏から秋ごろのこと会社は倒産したのである。その会社の専務が直営工場を引き継ぎ、工場を改装して住居を併設したようである。集団就職で一気に大勢の中卒者を採用したことと市場の変化が企業経営の足かせになったのだろうと推測する。

 だが工場改装の時期に、本社の下請け工場親睦会の従業員たちが南千住にあった大和毛織工場を見学している。工場見学の後は淺草にあった国際劇場で「秋の踊り」を鑑賞している。その足で高円寺工場グループは浅草観音を見学した。もしかすると本社倒産はその後かもしれない。いまだにその辺の経過が定かではない。 

 そんな変化の中で私自身も何かを考え始めていたのである。