集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

進学希望から就職決断へ

 3年生になると卒業後の進路について担任の先生が時折質問してきた。

 そのころ、3歳上の兄が下宿しながら町の高校へ通っていたこともあり、父も私もなんとなく高校進学に傾いていた。おそらく父親は、祖母(私の)の実家が息子を進学させていたとか父の妹も息子を進学させていたなどがあって経済的な事情よりも気持ちだけが先走っていたのだろうと思う。

 夏休みのころだったと思うが高3の兄が家に戻り高校生活について少しだけ話してくれた。下宿先は親戚の1歳先輩と一緒であったが、冬になると火鉢一つない部屋の寒さが耐えられなかったという。小遣いがなく辞書や参考書が買えないため思うように勉強が進まないなど主に経済的利用だが高校生活のさみしさが伝わってきた。そのこともあって、進学希望から就職を決断し、父や先生に伝えた。そのころから就職に伴う適性検査を受け、何も問題がないことが分かった。

 中学3年生は40人ほどの規模だったが、高校進学は2人ほどで、集団就職者は15人ほどだった。その他の人たちは卒業後も家に残り時期を見て家業の手伝いとか人夫作業を探すのが常であった。集団就職者は紳士服工場を選んだ4人のほか13人ほど(うち女性6人)だった。さらに臨時列車へ乗ったのは10人だったと思う。男子1人は単独で自動車販売工場に引き取られて上京した。また北陸の紡績工場には女子4人が就職した。その後も何人かは仕事を見つけて上京してきた。

 間もなく中学卒業から59年になる。そのころから首都圏に生活基盤を見つけた同級生が3月に食事会を開くことになっている。故郷の想い出とそれぞれの健康状態について親しく語り合うことになるだろう。