集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

消費者の意識が変われば「大量廃棄」は改まるのか

 衣服の大量廃棄に関して考えることをメモします。 

 当方は高齢者ゆえに、新しい衣服を買うことはほとんどない。普段は、現役時代のサラリーマン服を着るとか作業着は畑仕事で着るなどまだまだ利活用できる。それとリサイクルというか古着屋で必要なものは入手する。冠婚葬祭といった改まった場面の服装はその場で考えるとして、普段の生活では十分に間に合っている。 

 それは、ごく普通のファッション感性ではないと言う人が居るかもしれない。そうだろうと思うが、高齢者の収入からすれば十分ではないかと思うのです。確かに知人で年に何回か「夫婦でクルージング」を楽しんでいる人もいる。それなりに「気を使った服装」を心がけているだろうと想像する。それはいわゆる「庶民生活」とは違うような気がする。 

 サラリーマンや現役世代、若い人たちのファッション感覚、または衣服消費感覚は異なると思う。それは「使い捨て」と言っても良い「着回し」かもしれない。着回しは、循環に通ずると思うが「使い捨て」は言葉通りの「廃棄」であろう。論議にもあるように「着回し」、ネットなどを活用した「循環」型に意識を移してほしいものである。

 同時に、衣服製造の大量生産方式には様々な問題点があるように思う。おそらく、低コスト大量生産を前提にした工場の仕組みがあるのだろう。そのために現地では、それなりの経費削減策が行われ、低賃金や年少労働も行われているのだろう。そうした背景を店頭の「シャツ」や「パンツ」は見せてくれない。単に「安いけど個性的」を表現し、販売員も「新鮮感」を強調する。

 そのようなアパレル流通の仕組みをもっともっと明らかにしてゆくことがマスコミの役割かもしれませんね。単に「消費者がもっと賢くなることが大事」というだけでは、本質的な改善にはならないような気がします。