集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

ベトナム北爆のショック

 タイトルに書いたように北東北の深い山奥で生まれ育った。小学生のころは「僻地の子ら」というニュース映画が製作され、それに登場している。私は澤水を汲んで校長先生の部屋まで運ぶ役割をした。また農作業の手伝いというシーンで稗島を結わえている場面にも登場した。この時は普段の仕事だからごく普通にこなしたのだが、撮影スタッフからは「もっと力いっぱいの表情を見せて」と注文が付いたのだった。それに対し「こんなのはいつもやっていることじゃないか」と気持ちの上で反発していた。

 そのころは、炭焼き生活で食料はほとんど自給していた。電気はなく夜になると灯油ランプが便りで、それを準備するのが子供の仕事であった。山のてっぺん近くに家があったため坂道が多く自転車などこげる状態ではなく、ましてや自動車など見たこともない。新聞は郵便屋さんが1日遅れで届けてくれた。

 こんな貧乏生活から抜け出すためにはどうすればよいだろうか。そんな思いが小学生の頃から頭の隅で重い塊になっていた。これがわが人生の原点である。

 それから10年余が過ぎて、多分1966年の秋だったと思う。米国によるベトナム北部への無差別爆撃とでもいうのか激しい戦争のニュース映画を見た。ナレーションは「ベトナムの人々を皆殺しにする侵略戦争である。これを許すわけにはゆかない」と訴えたように記憶している。米国の無謀な侵略戦争を許してはならないとの気持ちが高まったことは確かである。

 ベトナム戦争の本当の姿を見つめなおしながら、「ベトナム戦争反対」の抗議行動に積極的に参加するようになった。それは「民族の独立と自由」を考えるきっかけでもあったし「侵略」について考えるきっかけでもあったように思う。根本では「人」とか「個人」の尊厳、「戦争」の愚かしさなどを深く考えることにも結び付くことであった。

 子供の頃の「貧乏生活」は、今では「貧困と格差」とか「過疎地」とか「限界集落」などと話題であるが、とっくにわが故郷の集落は人もうさぎも棲まない荒れた山林になっている。あの大地震原発事故で村を追われた人々の「いま」を思うと怒りが絶えない。「貧困と格差」は、それを実感できない政治家をはじめとした高級官僚たちの責任である。それを作り上げている体制依存や風潮を許してはならないと思う。

 近時の「米朝会談」もいろいろと論評されている。関連して考えたいのはかつての「わが国が犯した侵略戦争のことである。まだ「侵略戦争」に携わった人たちがいる時だからこそ「正確な情報」を伝えることが大きな役割だと思う。

 「貧乏」と身勝手な侵略戦争を問い続けながら、残された時間を生きてゆきたい。