集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

小学校の同級生は11人

 子供のころ山奥の村は町村合併により「市」に変身した。1954年(昭和29年)11月のことである。そのころ村には大字が5つありそれぞれに小学校がおかれていた。ほかに分校が2つあった。中学校は役場のある近くに1つあり、村中から生徒が集まった。つまり村には学校が小学校7つと中学校1つがあった。

 当方の通う小学校は、村の中でも山奥の方であったが生徒数は2番目か3番目の数だった。それだけ集落が多かったことになるし、1つの小字集落には分校があった(わが大字には小字集落が4つあった)。小学校3年のころまでは1~3年生と4~6年生がそれぞれ同じ教室に机を並べていた。典型的な複式学級である。その後校長先生が変わり1~2年生と3~4年生、5~6年生が3つの教室に分かれて勉強した。先生は校長先生夫妻のほかに独身の先生が赴任してきたのだった。

 何しろ小学校の生徒数は、多くて30人ほどで、半分ほどが親戚のような顔ぶれだった。なかで当方の同級生は11人(男5人、女6人)でとびぬけて多かった。その頃の生徒数は村の中でも2番目だったと思う。

 それが中学生になると、村の中学校に通う者は男4人のみで、あとの7人は隣村の中学校の分校に通うことになった。それほど辺鄙なところで村役場近くの中学校との距離感がわかるような気がする。通学時間は、我が家から小学校までがざっと1時間、中学校までは山をいくつも超えて歩いてざっと2時間と言われてきた。それ以外の通学手段はなかった。

 村の中学校には7つの小学校から生徒が集まった。3学年全校生徒数はざっと200人を超えることがあった。だから学年によってクラス編成が2つになることもあった。山奥から出てきた当方など生活感覚の違いから物怖じしてちじこまんでいたことを想い出す。

 そんな電気のないころの生活を想い出した。