集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

旧暦のお盆は子供の楽しみだった

 こどものころのお盆は、いまのような月遅れではなく旧暦に従った行事であった。従って現在の新暦でいえば8月後半から9月初めごろに行われていた。

 子供が楽しみにしていたのは、何よりも家族が普段の仕事を休んでくつろげたことである。真夏のことでもあり畑仕事や炭焼きの仕事などを休み本当にゆっくりしていた。そんなことは正月とお盆ぐらいしかなかった。ということで、たまに親戚が訪ねてくることもあった。その際は、手作りの「まんじゅう」や「背中あて」などの手土産を持ってくることが多かった。なかには町で買ったお菓子が混じっていることもあった。その手土産は、普段の食事と違って珍しいごちそうであった。それが子供の楽しみでもあったわけである。それに親戚の人たちと会うと親しみもこみ上げて甘えられることや褒めてもらえることがうれしかったのである。

 まんじゅうというのは、小豆をつぶしたテニスボール球を小麦粉の皮で包んでゆでたものである。背中あては小麦粉を伸ばして四角に切ったものをゆで上げたもの。その名前は固く重いものを背負うときに背中に当てていた四角い厚いゴザ風のものに由来するだろう。それは炭焼きにとっては必需品であった。

 我が家の墓は、歩いて40~50分のところにあった(集落の墓地)。墓と言っても墓石などほとんどなかった。戒名を書いた卒塔板がある程度だった。地べたにお線香やろうそくを立て松の木の切れ端に火をつけて先祖を供養するのがほとんどである。家に戻ると松の木の切れ端をそろえて送り火や迎え火を炊いた。それが子供らの仕事でもあった。

 子供のころというのは、昭和29年11月以前のことである。というのは1954年になって、山奥の村は「市」になってしまったのである。そのころ、ようやく灯油ランプの照明から電気照明に変わったのだった。電気が来るといっても集落では大変だった。何しろ自分の家までの電柱は自前で準備しなければならなかった。今でこそ電柱はコンクリ製だが当時は栗の木の大木だったから、どこの家にでも栗の木があったわけではない。それを集落で融通しあったわけである。

 そんな貧乏な山奥の生活を想い出した次第である。わが人生の原点でもある。