集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

前東京オリンピックと野球大会

 オリンピックの話題が尽きないこの頃である。2020年東京オリンピックを巡っては国立競技場の設計に関する話題が次から次と出てくる。エンブレムというマークの話題も「私企業への丸投げ」から起こったことだと思うが深追いされずに新マークが発表されたようだ。今年開かれるリオデジャネイロのオリンピックも様々な話題を提供してくれる。

 東京で前回開かれた第18回オリンピック(1964年10月)のとき私は、夜間定時制高校の4年生だった。オリンピック競技観戦のために昼間の仕事を休めるわけもなく観戦となれば休日ぐらいのことであった。学校としては動員要請にこたえることもあったのだろうと思うが”観戦すると出席扱いにする”と説明していた。そこで私は、開会式(10月10日)の翌日に明治神宮球場でエキジビションとして行われた日米の野球大会を観戦した。アメリカの大学選抜チームと日本の大学選抜チーム、社会人選抜チームとのダブルヘッターであった。野球に特段の興味を持っているわけでもないから試合運びなど全く記憶にない。ただガラ空きのスタンドで友達と喋りながら遊んでいたことを思い出すだけである。試合結果は米国チームの1勝1分けであったらしい。

 このオリンピックで印象強いのは、男子マラソン(10月21日)ではだしのアベベが優勝したことと円谷幸吉が3位入賞したことである。その後に円谷選手がなくなったことは社会の現実を知るうえでいろいろと考えさせられる動機ともなった。そして女子バレーボール(10月23日)で東洋の魔女が優勝したことである。

 オリンピックに向けて、カラーテレビが一段と普及し、新幹線が走った。その裏方で集団就職の人々が生きるために汗水を流したのだった。発展のために明日のより良き生活を求めて「金の卵」はひたむきだった時代である。4年後の東京オリンピックを控えて考えることは、マスコミを挙げての”おもてなし”一色がこのままでよいのだろうかということである。

 ”おもてなし”に異論を唱える人はいないだろう。そのキャンペーンにかき消されているものはないだろうか。1964年のオリンピック当時を振り返りながら落ち着いて考えてみたいことである。その一つが「消費」と「発展」である。