集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

なんとなく「中央委員会会長」に

 1年生の時はクラスで保健委員に選ばれた。

 2年生になるとクラスを代表する自治委員に選ばれ、各学年、各クラスの代表たちとの打ち合わせに参加するようになった。いわゆる部活では社会班に加入し、当方は岩波新書などを手本に「ソ連」の一党支配ほかの特徴や感想を発表した。先輩は当時の”ブラックパワー”に関する研究を発表し、謄写版刷りのパンフを配布していた。

 そんなこともあって3年になるといわゆる生徒会の中央委員会会長に立候補し当選した。副会長は1学年下の女子生徒が当選就任した。

 いわゆる「生徒会」としたのは、正式には「校友会」と言い、規約により校友会会長は学校長が就任することになっていた。そのもとに生徒を代表する中央委員会会長と副会長が各1名選挙で選出することになっていた。書記と会計は会長が任命する形であった。また任期は学期に合わせて前期と後期に改選することになっていたし、総会も年2回開かれた。生徒を代表する中央委員会会長は3年生が前期を務めていた。それにならって当方も3年生で就任したが、事前の選挙戦など特段の印象がないことは無競争に近かったに過ぎないためであろう。就任後はいわゆる部活(各班)の予算審査が続いたのを覚えている。

 いよいよ後期を前にして中央委員会の役員を巡る動きが出てくるのだが、この年は話題になるほどの動きがなかった。そのために当方が続投を決意し、再度立候補し当選した。これまでは半期ごとの交代であったが初めて2期連続就任の形となった。そのために前回綴った新校舎落成式典でのあいさつとなった。

 この間、校友会担任を悩ましたことがあった。それは「校友会」は本当の形の「生徒会」ではないのだから純然な生徒会組織にするよう規約改正すべきだと主張したためであった。つまり規約は 校友会会長は校長が務めると明記していたためであった。これでは校長の許可とか承認を必要とするので生徒の自治性が薄れてしまう。そんな主張だった。丹念に規約を読みこなし決議の在り方や任期、代表制などいくつかの問題点を列記して全日制の中央委員会会長にも説明した。

 しかし、定時制3年生の若者には論点整理や持続性が伴わずに教師の巧みな説得に腰折れて後半にはほとんど話題にしなくなった。いま想いおこすと当方の主張は間違っていなかったのだからもう少し粘っておればよかったと思う。

 4年生になると、後輩の1人に会長に立候補するので応援演説をしてくれと頼まれた。前評判によると彼の方がやや分が悪かった。そんな空気も感じながら「当選できなくても恨まないでほしい」と話しながら、応援することにした。その応援で故ケネディイ大統領の就任演説の有名な言葉を使わせてもらった。この就任演説は入試問題にも採用されるなど学習対象でもあった。残念ながら当方の応援した彼は僅差で敗れてしまった。