集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

街頭テレビや銭湯が楽しみ

 住み込み生活は中学校の延長みたいにワイワイしながら過ぎていった。

 始業時間前は工場内外の清掃が日課で、これは随分と鍛えられたと思う。よその職場に移ってからの周囲の評価などを考えると少年時代の良い経験、習慣として残っている。食事はその当時当たり前だったかもしれないが実に質素そのものだった。ある時穴の開いたマカロニがおかずに出たとき、とっさに頭の中は大きなウジムシを思い出し箸が進まなかった。だが勇気を出して食べてみると実においしいことがわかり次第にどんな食べ物でもおいしく食べられるようになった。

 当時は工場内にテレビはなかったと思う。というのは、高円寺の駅前広場に街頭テレビが設置されており力道山が試合に登場するプロレス放送を大人たちの後ろから少しだけ見た記憶がある。でも門限時間を気にしていそいそと引き上げなければならなかった。その後テレビが工場内に設けられ夜になると思い思いにテレビを囲む時間が増えた。

 仕事は、しつけとかボタンホールの穴かがり、ボタン付け、千鳥でのズボンのすそ上げ、ポケットのかんぬき止めといった”まとめ”作業がほとんどだった。そのうち私は志願したのだろうと思うが、内職やさんを自転車で回る作業も受け持つことになった。自転車に大きな荷物を載せて都会の道路を走ることなど大変な仕事だったが、ぐらぐらよたよたしながらなんとかこなせるようになった。さらには神田にある本社へ連絡役で行くこともあった。

 工場から歩いて7~8分の処に銭湯があり3日に1度ぐらい先輩や同僚たちと通ったが、時には先輩のおごりで銭湯を楽しむこともあった。夏場には先輩がアイスキャンデーをご馳走してくれることもあった。

 郷里を離れての生活はさみしさもあったが同世代との共同生活はそれなりに楽しいものであった。