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集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

1957年春、中卒者の就職模様

 私が就職したのは1957年(昭和32年)3月末だった。

 就職の日程が決まると親戚をあいさつ回りした。それは”礼儀”であったが正直言ってしたたかな計算もあった。というのはお金がないために上京してからの手持ち資金を少しでも多くしたいというわけである。親戚を訪問して「就職のために上京しますが、私同様に残っている家族たちの応援をよろしくお願いいたします」といった内容を説明すると、わずかばかりの餞別を頂けるというわけ。15歳の少年が考えた親戚に対する「礼儀」であった。

 当時のメモを見ると、3月26日夕方家を出てバスで駅のある町の旅館に素泊まりした。27日朝には地元公共職業安定所に集合し、雇用主引き渡し(就職)までの説明を受けたがどのような話であったか全く記憶にない。

 いよいよ27日正午ごろ家族など大勢の見送りを受けながらJRの駅を出発した。東北本線に乗り換えて盛岡に到着。盛岡ではどこに泊まったか忘れてしまったが28日午後盛岡を13両編成の臨時列車が上野に向かって出発した。これが集団就職列車である。翌朝早く上野駅に到着。すぐに上野駅近くの学校の校庭に案内され、雇用主を待った。ここで同級生たちが全くバラバラになり雇用主に引き取られた。私は同じ中学校から4人採用されていたのでよく知っている顔ぶれと一緒だったが1人ボッチの同級生のほうが多かった。

 雇用主は車で引率したが、途中で朝食をとることになった。早朝に営業している店はそれほど多くなかったと思うが、駅のガード下にある店に案内された。雇用主にとっては、心のこもった少年たちのもてなし方だったと思うが、奥深い山奥で15年間生活した少年たちは、出てきた食事をどのように食べてよいのかわからず顔を見合わせるだけだった。次第に誰かの食べ方を見ながらごちそうである「寿司」を口に運んだが、寝不足や疲れもあって「おいしい」との感想はなかったように思う。

 これが当時の2泊3日がかりの中卒者集団就職事情である。