集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

想い出

定時制4年生で「進学クラス」を選ぶ

1週間ほど前のこと「高校のヒラサワです」という電話が入った。用件は「10月末に同期会を開くので日程をあけておいてほしい」という内容だった。この会合を前回開いたのはもう5年ほど前のことだろうか。しばらくぶりに開催を準備しているらしいことがわ…

弁論大会で司会をしたのだが~

いわゆる生徒会長として恒例の校内弁論大会(予選)の司会を務めることになった。 それより前に模擬弁論大会が開かれた。なぜか明治大学の弁論部の学生を招いて司会から弁論の仕方などを学ぶ機会が設けられた。それを見聞した当方は学生の堂々とした姿勢に圧…

給食費月800円で完全給食 

新校舎落成記念式典が高校創立15周年と合わせて1963年12月5日に新校舎で行われた。その時すでに校舎は使用されていた。実際に全日制の新1年生たちは勉強していたし、後期からは定時制のための完全給食も実施されていたのである。 完全給食について…

なんとなく「中央委員会会長」に

1年生の時はクラスで保健委員に選ばれた。 2年生になるとクラスを代表する自治委員に選ばれ、各学年、各クラスの代表たちとの打ち合わせに参加するようになった。いわゆる部活では社会班に加入し、当方は岩波新書などを手本に「ソ連」の一党支配ほかの特徴…

映画「見上げてごらん夜の星を」

♪♪見上げてごらん夜の星を♪♪ ♪♪小さな星の 小さな光が♪♪ ♪♪ささやかな幸せをうたってる♪♪ ご存じ坂本九がヒットさせた「見上げてごらん夜の星を」の一節である。 「見上げてごらん~」は、1960年にミュージカルとして大阪で上演され人気となった。その主…

弁論大会を聞きながら定時制進学固める

15歳から夜間定時制高校へ入学するまでとても”まじめ”とは言えないが通信教育講座を受け、ときおりスクーリングにも参加した。学習というよりは受講生仲間で作る「東京支部友の会」文学部に加わり交遊するほうが多かったように思う。そうした中で夜間高校…

ストーブで食パンを焼いてはいけないか

定時制高校では簡単な給食があった。冬には石炭ストーブで教室を温めていたが、給食に食パンが出るとストーブで焼いて食べる人がいた。ホームルームの時間にそのことがテーマとなり、多くは「ストーブで焼くことを禁止すればよいじゃないか」といった方向に…

期末試験はさんざん

夜間定時制高校に入学したのは男女共学で60人ほどだったと思うが定かではない。クラスがAとBに分かれていたのでそのように推測する。また学年によってはCクラスもあったので4学年では200~250人が在籍していたと思う。私は4年遅れの入学だった…

夜間高校へ4年遅れの進学

通信教育仲間たちと交流する中で夜間高校へ進学できることを教えてもらった。それでもどのようにすれば入学できるか暗中模索の日々が続いた。ある時都立高校が夜間定時制の生徒を募集していることを知った。印刷工場のある場所から通学するためには近いほう…

たゆまざる前進を~1961年の決意

縫製工場に就職してから高校課程の通信教育を続け、月に1~2回スクーリングにも参加して学習していた。受講生仲間の文学部に加わりサークル活動にも顔を出した。その文集が残っているが私の作品はない。つまり文学部への加入は創作活動に関心を持ったため…

3年ぶりの帰郷

印刷工場に転職し、先輩職人の手伝いをしながら得意先へのあいさつの仕方や電話での応対などを身につけるようになった。印刷前の組版を間違えて解版して怒られたのも成長への経験であった。 その年の正月休みを利用して約3年ぶりに帰郷することになった。集…

隣家の火事で逃げ出す

就職から1ヵ月後の明け方のこと路地裏の隣家で火事が発生した。住み込みの従業員は工場の2階に寝ていたが、なんかいつもと違う”パチパチ”というか”パリパリ”といった音に目を覚まし火事に気が付いた。びっくりしたみながパジャマのまま逃げ出した。 しばら…

印刷工場の仕事はなんでも手伝う下働き

印刷工場といっても業種は、伝票類印刷がほとんどで端物(はもの)屋と呼ばれていた。近くには従業員30人ほどの印刷会社や名刺・はがき専門の店もあり協力しながら営業していた。仕事は職人の手伝いや下働きだった。 起床すると住居、工場の掃除、仕事の下…

17歳にして印刷工場へ転職

2月初めの日曜日、住み込みの転職先を求めて小さな求人広告と23区内地図を握りしめて高円寺から北千住へ向かった。ちょうどこの日は17歳の誕生日であった。 訪問先は小さな活版印刷工場だった。労働条件などを列記すると次のとおりである。 ▽勤務時間=…

新会社初月給は6000円

直営工場が改装されると社名が新しくなった(これは倒産ではなく工場の独立だったろうか)。いずれにせよ1月28日が新しい会社での初めての給料日だった。 初月給は6000円。食費2500円と社会保険料333円を引かれて手取り給料は3167円だった…

初めての新年会

2年目の正月(1959年1月)2日、東京近辺に就職した同級生のみで新年会を開いた。会場は同級生の女子が就職した鎌田のベーカリーショップ(パーラー)。参加したのは同級生10人と1つ下の男の子の11人だった。集団就職した男の子1人は連絡が取れ…

進路をはっきりしよう~1959年の決意

昨年後半の工場の変化に多少影響されたこともあり1959年元旦には決意をメモした。決意は「年始に当たり、自分に誓う。1959年は自分の進路を迷わず進むこと。進路をはっきりしたい。勉学するか仕事に熱を入れるか、そして考える力を養い、人生を築い…

会社は倒産していたんだ

就職2年目の春、中卒の男子4人ほどが就職してきた。1年間でどのような技術を身につけたかは別にして”先輩”の立場になったことは確かである。 このころ私は、大学受験資格が得られるという民間の通信教育(本部・東京上野)を受講していた。受講生で作って…

映画は2本建て3本建てで

東京・高円寺駅近くに映画館が2つあったように記憶している。中野駅近くには東映、大映の映画館があった。映画といっても当時は封切館といわばアウトレット式の2本建て3本建て上映館が多くお金のない少年はこちらの映画を楽しんだ。タイミングを逃し混ん…

街頭テレビや銭湯が楽しみ

住み込み生活は中学校の延長みたいにワイワイしながら過ぎていった。 始業時間前は工場内外の清掃が日課で、これは随分と鍛えられたと思う。よその職場に移ってからの周囲の評価などを考えると少年時代の良い経験、習慣として残っている。食事はその当時当た…

進学希望から就職決断へ

3年生になると卒業後の進路について担任の先生が時折質問してきた。 そのころ、3歳上の兄が下宿しながら町の高校へ通っていたこともあり、父も私もなんとなく高校進学に傾いていた。おそらく父親は、祖母(私の)の実家が息子を進学させていたとか父の妹も…

就職先は縫製工場

就職先は、東京の高円寺にある紳士服縫製工場だった。この工場の本社は神田近くにあり百貨店などに自社ブランドの紳士服を納品販売していた。その直営工場であった。 当時従業員は責任者を含め11人(うち住み込み従業員6人)ほどの規模であった。その工場…

1957年春、中卒者の就職模様

私が就職したのは1957年(昭和32年)3月末だった。 就職の日程が決まると親戚をあいさつ回りした。それは”礼儀”であったが正直言ってしたたかな計算もあった。というのはお金がないために上京してからの手持ち資金を少しでも多くしたいというわけであ…