集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

膝痛の逆襲で歩行困難に

 みなさま、明けましておめでとうございます。

 正月は「おめでとう気分」で過ごしましたが、以前からの膝痛が突然襲い掛かってきて7日午前お世話になっている整形外科医に駆けつけました。レントゲンでは異常が発見されず薬の処方のみで帰宅。8日は予定のパートに出かけましたが帰宅時にとうとう歩行困難になり、タクシーで整形外科へ。医者はMRI撮影が必要としながら予約は「14日」になるとのこと。それまで痛め止めを服用しながら自宅でじっとしているしかないのだ。

 狭い我が家の中も杖に助けられながらの移動。買い物など外出はとても無理。あれこれとやるべきことは多くあるのだが、膝の痛みで脚が普通に動かずじっとしているだけ。周囲にも随分と迷惑をかけてしまっている。

 我が家の畑の手入れもしばらくお休みとなるが、気掛りいっぱいである。 

 これも年輪のせいでしょうか? 自分に言い聞かせながら快方を願う。

 同時に故障でご迷惑をおかけした方々には感謝を申し上げます。

新年おめでとう

 謹賀新年

 ことしもボツボツと日記を綴ります。

 引き続きお訪ねくださいますようお願い申し上げます。 

   2020年 元旦   

  *賀状をいただきました。郷里の同級生から「よくなりました」の添え書きのある

   賀状もありました。夏の頃でしょうか「これから入院です」との知らせがありま

   した。どうやら乗り越えた模様です。良かったですね。 

   ことしも元気だけを頼りにコツコツと歩きましょう。 

   感謝感謝です。        

 

さよなら、寅さん~感激でした

 思ったより早く「寅さん」に出会いました。公開中の男はつらいよの50作目を鑑賞することができました。懐かしさに 初めから涙が止まりません。年のせいだろうと言い聞かせながら鑑賞しました。

 さくらと博の息子・満男が夢を見てひとりごとを発する、そんなシーンから始まった。成長した満男には高校生の女の子がいる。満男の夢は、高校生時代の初恋の人・泉を想い出してのことだった。その2人の別れと出会いを中心に、当時のフィルムと重ねるようにいまの現役俳優が名演技を見せてくれました。

 満男はいまは小説家で出版社に薦められてサイン会を催すほど。泉は国連機関に務めるパリパリのキャリアウーマン。もちろん外国住まいで家族と生活ている。そんな二人がサイン会で出合う。2人がコーヒー店に出かけると奄美大島で出合ったことがあるいまのリリーが登場する。泉の来日にはある事情もあった。それは不仲の両親との出会いである。年老いた母(夏木マリ)や父が登場する。もちろん、年輪を重ねたさくらや博が登場する。ほかにも当時登場した役者たちが現在の姿を見せてくれたと思うが、当方はそれほど詳しくはない。

 当時の映画のシーンで観た覚えのある印刷工場の風景は格別懐かしさを感じました。

 この映画男はつらいよを49作そして50作まで作り上げた監督は実に偉い人だと感心する。多分この間描かれた「寅さん」の生き方にほとんどの人は感動を覚えたと思う。そんな作品を作り続ける発想の豊かさや情熱を薬にして飲みたいと思う。

映画”寅さん”と想い出

 映画男はつらいよはよく観た方だと思う。この映画に浅丘ルリ子(リリー役)は何度か出演しているらしい。あのリリーが登場した映画を観終わったときに「なぜか、これで寅さんの映画も終わりだろうか。寅さんも年だからなあ~」と感じたのを想い出す。当時マスコミで「終わりか?」といった取り上げられ方があったためだろうと思うのだが定かではない。

 この映画は第48作目だったらしい。その次の作品は鑑賞の記憶がないので、当方にとっては最後の男はつらいよになった。それからしばらくして確かに車寅二郎は亡くなった。 

 もう一つは、さくら(倍賞千恵子)の夫・博(前田吟)がタコ社長(太宰久雄)経営する印刷屋に務めていた。それぞれの役柄よりも印刷機が動いている工場内の匂いを想い出す。

 当方は16歳のころから東京・北千住の印刷工場に住み込みで働いていたこともあり懐かしい風景であった。働いていた印刷工場は、帳簿類を専門とする「端物屋」であり、活字といえば5号と8ポイントが主流であった。当時私は「文選」(活字拾い)と「植字」(版組み)そして下働きだった。活字を活字屋に電話注文することも仕事のひとつであった。電話では漢字1文字について音訓や偏や旁りなど合わせて2~3回言いなおしてお互いに確認するやり方だった。そのためか随分と漢字に親しむようになったと思う。

 そのうち伝票類に「裏カーボン」が採用されるようになり、零細企業の社長(当時は旦那と呼んでいた)は新しい印刷機を導入した。これはカーボンインキを熱で温めながら印刷するために真夏でも大きなガス釜をたかなければならなかった。カーボンの匂いと工場内の暑さに耐えきれず逃げ回ったものである。

 そうした工場内で働きながら、夜間定時制高校に皆より4年遅れの18歳で入学することができた。そのまま夜間大学に進み27歳のときようやくサラリーマンになった。

 いま男はつらいよの第50作目が封切られたそうである。この正月にぜひ鑑賞したいと思う。これで「寅さん。さようなら」になるのだろう。

 

出生数90万人割れで想い出すこと

 25日、マスコミは一斉に2019年の出生人口が90万人を割ってしまったと少子化による人口減少が急速であることを伝えた。これは厚生労働省が毎年まとめている人口動態統計の発表に基づいたものである。

 年間出生数は、戦後間もなく268万人(1947年)を記録したことがある。この時期に生まれた人たちを第1次ベビーブーム世代とか団塊世代と呼ぶようになった。この世代が結婚して生まれた子どもたちも年間200万人を数えたので第2次ベビーブーム(1971年から)と呼んだ、その世代を団塊ジュニアと特徴づけた。そのような特徴づけによる市場分析や販売促進活動が際立った時代があった。

 現役時代の一時期、年間出生人口に無関心ではいられない頃があった。団塊ジュニアたちが20歳を超え結婚する時期に差し掛かったころだろうか。振り返ると20世紀最後のころ、もう20年ほど前のことだろう。そのころの出生人口は100万人以上を数えたと思うが、クリスマスやお正月になるとプレゼントが親だけでなく両親の親、つまり両家の祖父母からもらえるということで”シックスポケット”(六つのポケット)と特徴づけた。子どもの数が少なくなりそれだけに周囲の愛情が1人の子供に注がれるというわけ。そこから[六つのポケット」からどのように支出を促すかがテーマになっていた。 

 そのころ後輩が結婚式を挙げることになりお祝いの言葉を頼まれた。新郎はなかなかハンサムだったので、話題の映画「タイタニック」主演のデカプリオのような人気者であると讃え、この少子化の時だからこそ早くベビーを見せてくださいといった趣旨の話をしたように思う。この映画が作られたのは確か1997年だと思うので、98年か99年のころの想い出である。

 下写真は25日付讀賣新聞      f:id:yasanjin2016:20191225172319j:plain

 

興味深いクモの行動学

 もう20年以上前のことであるが、仕事の関係で「ワイルドシルク(野蚕)」に関心を持つようになり、研究グループの方々ともお付き合いするようになった。もちろんワイルドシルク製品も愛用し靴下などはいまでも手放せない実用品である。

 ワイルドシルクは、よく知られる飼育されている「カイコ」に対する名称で”野生で生育する蚕”といった意味から名付けられたもの。地球上にその種類は数え切れないほど生息しているらしいが実態は未解明である。代表的なものはわが国特有の「テンサン」または「ヤママユ」といわれる緑色の野生蚕。ほかに中国の「サクサン」、インドの「タサールサン」とか「ムガサン」などである。

 これらのワイルドシルクはカイコと同じように生糸を吐き繭をつくる昆虫の仲間である。その繭から生糸を引き出して様々な製品をつくることができる。

 似たような「虫」にクモが挙げられる。クモの多くは糸を出して餌を摂るための巣をつくる(あのクモの巣)が脚が8本あるので昆虫とは区別されている。だが、その糸の丈夫さや修復の素早さにはさまざまな分野から関心が寄せられている。そのような不思議な「クモの行動学」を研究している学者がいるらしい。政党機関紙赤旗」(23日付)の「学問はおもしろい」で京都女子大学の中田兼介教授(動物行動学)が語っていました。 

 地球上にクモの種類はざっと48000種ほど確認されているらしい(推定では12万種類とも)。しかもクモの巣をつくるものや巣を作らないクモもいるそうである。クモは何をどれだけ餌として食べているかというと、驚くなかれ魚や蝙蝠なども食しているそうだ。その量は年間重量換算すると地球上の人口の総体重を上回る4~8億トンに上るらしい。

 ほかに種族繁栄のための交尾についても詳しく説明している。クモは交尾ではなく「交接」というらしい。

 昆虫の「カイコ」の仲間の糸と昆虫ではない「クモ」の糸の違いや共通性を理解するために、または糸を作り出す「虫」としての違いや共通性を理解するためにもじっくり考えてみたい気がしました。宇宙時代に通じる課題でもあるから余計ですね。

 

継続守れ夜間定時制高校

 夜間定時制高校から夜間大学へ進んだ1人として「夜間定時制」廃校の報道に接して、時代の変化と教育行政のあり方に怒りを禁じえません。

 東京都教育委員会は2016年2月に夜間定時制高校4校を廃校することを明らかにしていたが、このほど4校のうち2校については20年度、21年度についても募集継続することを明らかにした模様です。これは関係者による「定時制高校存続」の粘り強い要望の積み重ねがあったためと思います。

 教育委員会は、廃校基準をきちんと説明していないようですし検討委員会なども設置せず、そうした経過の公文書も残していない模様です。そうしたずさんな行政により効率とか成績先行が大手を振ったのだろうと思います。

 教育行政こそが、これからの人材を育て作ってゆくわけですから、教育の機会均等の保障(とくに貧困と格差の拡大)の精神を生かす方策を示すのが務めだと思います。普通高校へ入学できないなら「定時制」で学ぶこともできるといった条件を示して中卒者を励ますのが行政の役割ではないでしょうか。

 教育の機会均等の条件を狭める方策を考える行政担当者は身を浄めてほしいと思います。  

 この記事は「赤旗」新聞12月18日付を参考にしました。