集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

「社員の幸せ」を目的に企業成長

 セブンイレブンをはじめとしたスーパーやデパートの閉店が話題になりました。それは企業のリストラ、人員削減がついて回る。それは「首切り・解雇」ですから、家族を含めた人生設計が崩れることに直結する。

 そうしたなか朝日新聞15日付コラム「経済気象台」「経営の目的は社員の幸せに」を興味深く読みました。いわゆるリストラに「違和感」を持つ筆者は、中小企業の経営者のようである。

 経営者の筆者は、あのリーマンショックの時社員を前に”みんなの生活は保障する。ローンを組んでいる人も安心してくれ”と宣言したそうである。その結果10年後のいま売上高、社員数ともほぼ4倍ほどになったという。

 そこで筆者は、「生き甲斐が人生を豊かにする。社員の幸せや成長の上に会社の発展がある」と説明する。さらに信頼関係を基に「一緒に会社を育てるといった実感が持てれば、会社の体質が強くなる」というわけ。そこからコラムの見出しがでてくる。

 現役時代に、友人、知人の務めていた企業の倒産、そして再建に取り組む姿をいくつか見てきた。そんな思いから筆者の言う「経営者と社員の信頼関係」はどうだったのだろうかと考えさせられた。企業の拡大成長と市場とのマッチングをどのように、誰が判断するのか問われる。

 大企業のたゆまざる拡大成長は無限なく続くのだろうか。おそらく万物に限界があるとすれば、いずれ企業の拡大成長も「崩壊」が法則かもしれない。その前に”ビッグバーン”を起こして変身することもあるだろう。

 利益増殖、拡大成長が「目的」の企業経営か、それとも「社員の幸せ」に重きを置くの経営姿勢にするのか問いかけているコラムのようでした。

集団就職と紡績女工

 いま仲間たちと世界遺産富岡製糸場をめぐるバスツアーに取り組んでいる。

 すると奇遇にも「紡績女工」にまつわる話が飛び込んでくる。22日付の朝日新聞「寅さんを探して」の記事を掲載している。その話題は、新潟から「紡績女工」として「集団就職」する少女たちに、寅さんが「元気でな。しっかりやるんだぞ」と励ますシーンを振り返る。

 後期高齢者の当方は、1957年春集団就職で上京した。出発の駅のホームでは似たような風景が見られたことを想い出す。当時の卒業生は40人弱だったが、女子4人が北陸石川県の紡績工場に就職した。うち2人は現地に定着し、ときおり元気な便りをよこしてくれる。あれからもう60年以上が過ぎてしまった。

 いまひとことで「紡績女工というが、富岡製糸場ができたころは、良家の子女を集めて技術研修したこともあって「工女」と呼ばれた。フランスから招かれた指導的技術者は「女工」と呼ばれた。当時官営工場では「技女」が使われ、その後製糸工場では「工女」、紡績工場では「女工」が使われるようになったらしい。また戦前政府は主に労働者を指す言葉として「職工」を使っていた(「飯島喜美の不屈の青春」玉川寛治著を参考にしました)。職種のよび方にも政治的な意味合いが込められていた様子がうかがえます。

 同書によると、1957年ごろの話として、少女たちの「女子寮」は「居室は15畳の居室部分に3畳の小部屋」がありそこに9~10人が生活していた。労働基準法は「1人当たり1・5畳」としていたが、戦前と変わらない劣悪な条件で働かされていた。あの有名な近江絹糸のストライキは1954年のことですから、その後の模様・実態が理解できます。そうしたなかでサークル活動が活発になり60年安保闘争が準備されたたそうです。

 そのころ当後期高齢者は社会の右左がわからない18歳ごろでしたね。

 

老後を心配しながら「貧困」を考える

 後期高齢者が「老後」を考えるのは、あの「2000万円」問題が大きなきっかけかもしれない。そのほかに「消費税10%」の実施が、追い打ちをかけたように思う。

 老後を心配なく過ごすために必要な資金は「2000万円」。といったって何歳まで生きられるかわからない。現実は、年金では生活できないためにパートを続ける。それでなんとなく夫婦2人が食いつないでいるのだ。そこに「消費税10%」とは貧乏人への仕打ちのようなものだ。

 自給自足状態の少年が都会で後期高齢者になり、パートで食つなぐ現実は「自己責任」かもしれないが、そんないまの政治社会制度はおかしいのではないだろうか。

 そこで貧困層の分厚さについて考えるようになった。

 典型は「生活保護」だろうか。生活保護基準に満たない人や世帯貧困層というらしい(不正確かもしれない)。働く貧困層は2014年をピークに減って入るものの依然として1000万人を超える多数である。

 そうしたなかに「働く貧困層とか「ワーキングプア」と呼ばれる人たちがいる。また大学院を卒業したが応分の所得がないポスドクとか「高学歴貧困」が話題である。さらに最近では「貧困専業主婦」の特徴も明らかになってきた。さらに「子どもの貧困」の多さや多様さが様々な角度から議論されている。食事が十分とれないとか保健室登校が多いとか不登校などが問題となっている。

 子どもだけではない。大人の「引きこもり」だって社会問題になっている。生きづらさと貧困が一体となった感じである。 

 マスコミ報道に要望したい。一般に「貧困と格差」が広がったと「理解されたこととして」扱われることが多いような気がする。米国流の「99%」も「常識」みたいに流されてしまう。そうではないでしょう。わが国の場合、生活保護基準未満の人や世帯がどれぐらいいて、役所はどうしようと考えているのか。なぜ「ワーキングプア」が減らないのか。社会保障の将来を含めて改善策は議論されているのか。

 それと同時に「平均像」にこだわらずに、例えば「ポスドク」の現実をドキャメンタリ―として取り上げるなどが媒体に求められていると思うのである。平均は統計でよい。物語は個別具体的が期待されていると思うのである。

 いかがでしょうか。不十分さはお認めください。感謝です。

キャッシュレス、ポイント還元誰のため

 消費税10%が実施されるといろんな問題点が浮かび上がってきたようである。

 先日は専門家による「キャッシュレス決済の優遇策が理解できない」といった記事を新聞で読んだ。キャッシュレスと縁遠い老人にとっては記事の全体をつかむ許容力がないものの「見出し」からなんとなく主旨が理解できたような気がする。

 ほかの記事や資料を読んでいると、政府がキャッシュレスを多額の税金をつぎ込んで推進するのは、キャッシュレス先進国の中国やほかの国に遅れてはみっともない。オリンピックで来日した外国人客に「後れ」を見せるのはまずい~といったメンツがあるといった解説を見かけた。オリンピックの頃はポイント還元はなくなっているはずだがどうなんだろう。

 さらに「ポイント還元」について資料を見ていると政府と「カード会社」が「グル」となっている構図が浮かび上がってきた。なぜかというと、主役は「カード会社」であり、消費税10%を推進する政府が補助金をカード会社につぎ込む(ある資料では国債発行ともあった)。キャッシュレス販売でポイント還元を望む町の商店が、カード会社に登録を申し込む。それに従いお店は「カード会社」に手数料を支払う。お店はキャッシュレス客には喜ばれるが、現金売り上げが減り台所は苦しくなる。

 一方、お客=消費者は、カード会社との契約で「カード」を受け取り・使用する。お店で買い物をした場合、決済はするが、還元ポイントは「カード会社」から賦与される。つまり「カード会社」が主役として、消費者の懐もお店の懐もしっかりと握っているといった構図ではありませんか。

 ポイント還元は2020年6月までです。その後も「カード会社」は懐をつかむ策を練ってくるでしょう。キャッシュレス推進でおいしい蜜を吸う知恵者たちが「消費税10%」をごり押ししているのだろうか。

 識者の短い投稿記事に感謝します。

簡単野菜に助けられています

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 我が家の野菜畑では、サニーレタス(写真)、ブロッコリーが順調に育っています。

 先に紹介したキャベツも虫に食われながらも生育はまずまずです。

 秋になり、菜の花、春菊、大根、サニーレタス、つるなしインゲンの種を蒔きましたが気温が高めなのに予定通り芽を出してくれました。ほとんど手間のかからない野菜ばかりです。 

 ほうれん草、ニンジンも種まきしましたが、順調に芽が出て来ません。ニンジンは8月ごろに種まきするのが一般的と聞いて、後悔しながら芽を出してくれたニンジンを心を込めて育てたいと思っています。

   

  

コンビニ1000店舗閉鎖の転機

 コンビニのセブン・イレブンが1000店舗も閉鎖するといったニュースが伝えられた。驚きであるが、それほど小売業にとっては転機の時期ということでしょうか。

 朝日新聞によると、小売業の転機は、三越前身の越前屋が掛け売りから現金販売を始めたこと、ダイエーに代表されるスーパーマーケットの誕生、そしてコンビニエンスストアが誕生したこと~の大きな転機が3回あったと解説している。

 当方がサラリーマンになったのは1970年ごろである。ちょうど「問屋無用論」が真っ盛りのころだった。そんななかで「世の中の右左もわからない若造」が先輩の指導を受けながら、なんとなく「いっぱしの社会人」になれました。その間有力企業創業者の見識を伺うことも何度もありました。そのことが「少しでも」人生の糧になっていればと思ういま現在であります。

 詳しくは専門家に任せますが、その時期から少し遅れて、アオキ、青山、コナカといったロードサイドショップ(郊外型専門店)が誕生した。メーカー(製造業)の直営店も盛んになってきた。さらに製造卸業態から抜け出した「ユニクロ」のような業態が登場し人気を集めるようになる。そのころいわゆるスーパーは、郊外に大型ショッピングセンター(モール)を展開するようになる。

 いま、都心百貨店の閉店が続いている。先にオンワード樫山が店舗の縮小策を明らかにしたように流通「小売り」のあり方が問われている時機のようである。

 さまざまな場面での「転記」に敏感でありたいと思う。

消費税「税コミコミ」は本当に新発想か?

 消費税についてさまざまな意見がマスコミで紹介されている。 

 朝日新聞9日付けオピニオンのぺージで編集委員「価格を科学する 消費税コミコミの新発想」の見出しで記事をまとめている。なんとなく見出しに記事の内容が凝縮しているように思うのだが、なかなか素人には難しい論理の展開である。

 断片的に拾い出すと、日本では「消費税アレルギーが強すぎ」ると、「それはいけません」といった見解のようである。つづいて「消費税だって事業者がまとめて税務署に納める一種の法人税」という。消費税と法人税の性格をあいまいにしただけでなく、負担する人が誰かを無視し、納付者が負担しているように描くのは「科学的」ではないと思う。

 さらに、事業者の負担する税は、何らかの形で消費者に転嫁されるという。そうした側面は否定しがたい。だから今回の「消費税10%」実施では、政府は前もってメーカー等に価格引き上げを奨励したわけである。そのうえに消費税は「8%から10%」に増税される。疑いない事実である。

 複雑な税率とポイント還元が行われる小売り現場の混乱が問題となっている。そこで編集委員は「消費税コミコミ」を紹介する。例えば、スポーツ観戦のシート料金が、対戦相手やシート位置によって変動する仕組み。それはチームの人気や曜日、つまり需要予測によって変動するらしい。コンサートなどでも導入されているらしい。ここでは、観客は変動した料金に従って「10%」の消費税を負担すること間違いないわけだ。

 そんな記事を読みながら「缶コーヒー」をどこで買うのが「お得か」を想い出した。

手っ取り早く自販機で買うと120円。コンビニだと130円。最近増えている100円自販機で買うと100円で済む。コンビニでは消費税額が明記される。ほかに食品スーパーで買うと税込み80円以下で買えるのだ。

 つまり、製品価格は、メーカーと小売業の取引によって異なってくる。その店頭販売価格に「消費税10%」の負担がついてくる。そのことを見逃しては、「価格を科学」したことにはならないと感じた次第。