集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

「幸せ」は金で「買うもの」ではない

 我が人生「貧乏からの脱出」の人生である。それが「不幸」であったかどうかはわからない。といって「幸せ」だったかといえば「そんな気持ちにもなれない」のが本音である。

 朝日新聞11日付では「お金で幸せになれる?」のタイトルで、著名な方々のインタビュー記事を掲載している。タイトルは別にしてリードで「お金でどこまで幸せを買えるのか」を著名人に聞いたと書いている。どうもこの辺りがいわば「外れている」のではないかと思う。優秀な記者に向かって言える立場にないが、「幸せ」は”売り買いできるモノ”ではないことを前提に企画してほしかった。 

 著名人は「いまの日本は幸せな国じゃない」(ボランチィアの尾畠さん)と言う。上場会社の会長・兼元さんは「現在の日本は、お金があっても、孤独で幸せではない人が増えている気が」するという。そして「いまは企業も労働者も」「お金のために働く世界になって」(コーヒー店主の影山さん)いると指摘する。当たっているかどうかわからないが人も組織もお金に振り回されており、その社会では「不幸せ」ものが増えているように感じているのだろう。そんな感じである。 

 この企画は「幸せ」を主題にし、そのリードで「お金はないよりあった方がよい」と書き出している。当たり前のことだが「お金」はその使い方により「幸せ」を産んだり「不幸せ」を招いたりする。同時に「お金」のあり方が「所持者」の人格さえ変えてしまう、そうしたある意味で「魔物」でもある。その「お金」で「幸せ」を「買える」発想はおやめくださいといいたい。

 老人は「幸せ」は身の丈に合わせたものだと考える。お金は「あった方がよい」が、お金の「大小」で「幸せ」は決められない。億万長者がもし「健康でなかったら」、「家族がおらず孤独であったら」本当に「幸せ」だろうか。仮定の話だが老人は「ノー」という。短絡だが「お金」よりも「健康であること」と「家族に恵まれる」ことが「幸せ観」を高めると考える。逆に「家族はいる」し「みな健康ではある」が「お金がなく困っている」場合もあるだろう。しかし「家族」と「健康」が備わっていれば「何とかやって行ける」ような気がする。 

 「幸せ」は「お金」で買える「モノ」ではない。同時に「幸せ」は「モノ」でないから「見えない」その人の「気持ち」や「心」にあるだろう。といって「家族」「健康」「お金」のどれかが欠けては一般的に「幸せ感」は小さくなるだろう。

ドーナッツの経済学?

 世界の経済をドーナツで考えるという話題がテレビで紹介された。その内容をじっくり観たわけではないのでほとんど忘れていた。それだろうと思われることを朝日新聞が10月13日付で取り上げていた。タイトルは「21世紀のための経済学」。ケイト・ラワースという経済学者へのインタビュー記事である。 

 丸いドーナッツに世界経済を収めて21世紀を考えるということのようである。大事な点は「経済成長」を基本とした今後の生活のあり方を是認するかどうかにありそうだ。つまり「経済成長」がゼロとかマイナスの中でも世界の人々が「生きてゆく」経済学が求められているというわけだ。素人ながら「なるほど。なるほど」とうなづきながら読み返した。

 記事では「作って使って捨てる」という生産・消費構造を作り直すこと。そのうえで「富を分配」する仕組みを変えることだそうである。「富の分配」では、地価税とか土地の共同利用を提案している。またグローバル企業(経済活動)への課税強化なども提案している。 

 指導者が「立派な人」なら、社員とか国民が「幸せ」になれるという経済の仕組みでないことは明らかでしょう。地球上の諸問題をリンゴにたとえようがドーナッツにたとえようが「貧困と格差」は容易に解消されないのが現実。右肩上がりの「経済成長」依存ではない経済の仕組みを提案模索、試行することに期待しています。

 老人は、あらゆる面で「もったいない」の気持ちをもっともっと広げてほしいと思うものです。

懐かしい大豆料理たち

 同級会では「郷土食」が話題になった。その筆頭が「豆腐田楽」である。

 思うに「豆腐田楽」は豆腐の上に味噌を塗って焼いたものだから、ほとんどが大豆からできている。それを考えると「大豆」(まめ)を材料とした料理の多いことに関心した次第である。

 まず「豆腐」があり、それを凍らせた「すみどうふ」(高野豆腐)、製造過程でできる「きらず」(おから)や湯葉も欠かせない。味噌は、豆を大きな釜でゆで上げてわらで編んだ大きな「つまご」を履いて踏みつぶし、それを頭大のボールに固めて(みそだま)囲炉裏の上でいぶし乾燥させる。しばらくしてから大きな大きな樽にボールを砕きながら塩と混ぜ合わせながら入れておくとだんだん発酵し「たまり醤油」が浮いてくるので、それは「醤油」代わりに使える。そのころ「味噌」は食べられるようになる。ほかに「納豆」もある。 

 大豆を硬いままで利用すると「黄な粉」が代表例だろう。もちろん豆を炒めて練り菓子に混ぜることもある。炒ったまま食べることもあった。「まめすっとぎ」は「大豆」でも種類が違うものだったと思うが、定かではない。

 「小豆」(あんづき)、「あんこ」に使うことが多かったようだ。郷里で「まんじゅう」といえば、「あんづき」を少しつぶして、大人のげんこつ大に丸めて小麦粉の薄皮で包んだものだった。よく祝いごとや法事など人が大勢集まる時季に使われていた。小豆餡汁に幅の広いうどん(ひもかわ)を入れた「あんずきばっとう」という料理があった。これは子供に人気であり同級会でも「あれはうまかった」と懐かしい思い出話になった。

 

 

子どものころのおいしい食べ物は? 

 10月7日の同級会で話題になったのが、子どものころの食べ物の話し。

 こどものころというのは、昭和27~30年(1955年前後)以前と言えるでしょうか。

 村の多くは炭焼きに従事しながら畑作で自給自足に近い生活をしていた。田圃はないため稲作は全くなかった。ということで、稗と大麦が主食である。今では雑穀がヘルシーとかで話題にもなるが、当時は食の貧困そのものであった。ほかに小麦、粟、イナキビ、タカキビ、大豆、小豆、ソバなどが畑作穀物であった。それにジャガイモ、大根、ニンジン、ゴボウ、キュウリ、トウモロコシ、ささげ(インゲン)など。さらに季節の山菜やキノコ、川魚などが食材に加わった。 

 いまに伝わる伝統食は「豆腐田楽」「軍配餅」だろうか。とくに「田楽」はこの地の田楽こそが一番だと「口をそろえる」ほど、思いで深い味である。ほかに懐かしく思うのは「豆すっとぎ」とか稗の粉で作った「すっとぎ」。または小麦粉で作った「背中あて」(四角い作業具から)も想い出のおやつである。

 そうしたなかに山菜の根である「ところ」や「くず」、「ぜんまい」または「カタクリがあるから驚きでもある。いま、葛粉やぜんまい粉、カタクリ粉を使った食品やお菓子といえば高級品である。それが山奥の人たちはごく自然にそれらを手に入れていたのである。だが、「ところ」(山菜の根っこでひげいっぱい)だけはいまに伝わっていない。その「ところ」を当時の人たちは食材として飢えをしのいだのである。 

 同級会での話題をヒントに、昔の地方食や方言についてもメモしようと思う。

台風被害にがっくり~畑もよう

 台風24号の塩害で畑の野菜は大打撃を受けた。どのような立ち直りができるか悩みの種である。郷里での同級会に浮かれてしまい、4日ぶりに畑を巡回した。

 24号が通過した直後に巡回し、ニンジンの新芽、大根の新芽が痛めつけられ、ナスの葉がほとんど枯れてしまうなどの被害を確認し素人なりに手を打ったつもりでいた。大根の場合新しい種を蒔いたりした。

 10月10日巡回すると、大根とかぶの新芽はほぼ全滅、ニンジンは部分的に根付いていた。ナスの幹は枯れずに残っているがこれから実をつけるかは不明である。さつまいもといちごは健在であった。問題なのは畝の塩害である。表面が白く固まっているではないか。食感で言うと「しょっぱい」というのがぴったりである。このままでは大根や玉ねぎを植え付けることはできない。どのように畑の「塩害」を取り除くか夜も眠れない感じである。

 おそらく畝を掘り返し、石灰でも撒いて塩分を和らげることしかできないだろう。それでこれからの野菜類が普通に成長するだろうか心配である。まあ商売としての畑ではないので「学習」と思えばいいわけだが、改めて専業野菜農家の苦悩を想いおこしました。

 合わせて「復興」の難しさや困難さを思い知らされました。悔しさいっぱいです。

同級会から昨夜帰ってきました

 郷里での同級会に行ってきました。

 6日夜、夜行高速バスに乗り、11時間ほどで目的市の中心部に到着(7日朝)。到着して驚いたのは、台風から低気圧に変わった後の”ものすごい強風”だった。町に出ると歩くのがやっとという風に襲われた。買い物を済ませて、そこからは友人のクルマに乗せてもらい30分ほどで会場へ到着。

 参加者は6人と少なかったが皆顔なじみで「やあ」のあいさつで2年間の無沙汰を埋められる。そんな感じである。昼の宴会から夜食にかけて飲みながら雑談が延々と続いた。合間を見ててんでんに温泉に入る。それも「俺ちょっと入ってくるよ」で済むから、気が楽である。 

 8日の天気は打って変わって秋空に恵まれた。9時30分ごろそれぞれの予定に従って車でスタート。当方は友人のクルマで高齢の姉の家に寄り元気な顔を見て、しばらくして帰路についた。

 我が家に戻ったのは8日20時頃だった。

 想い出と近況をいっぱい語り合った同級会であった。来年3月は東京で、再来年は再度郷里で同級会を開こうと話し合いながら解散した。皆の健康に乾杯。

 

さあ~郷里へ出発だ!

 2年ぶりに郷里で同級会が開かれるというので、台風の進路を追いかけながら旅に出かけます。ことしの同級会は、いろんな形で期待されていたのだが、いざとなると参加者は数人にとどまる見込み。至極残念である。

 まあそれなりに年齢を重ねたので、連れ合いの体調がすぐれないので遠出ができないとか本人が旅行できる体調ではないなどの欠席理由が多い。

 参加者の内4人は集団就職仲間であることを想い出し、それ以来のあれやこれやが頭の中を駆け巡っている。どんな話になるか楽しみである。

 ついでに高齢の姉を訪ねることにした。連休とはいえ滞在時間が限られるので元気な顔を見るだけになろうかと思うが、やはり2年ぶりの再会を楽しもうと思う。

 台風は温帯低気圧に変わると報じられているので影響は少ないかと思うが気象の変化には気を付けたいと思う。