集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

元大臣の発言は「慎んで」済むことですか

 モリ・カケ問題に絡む「公文書改ざん」から、日報の「隠ぺい」、さらには「セクハラ問題」まで発展して政府や官庁、政治家に対する信頼は地に落ちてしまった。

 一連の問題で元文部大臣の発言は決して許される内容ではない。25日の朝日新聞を読みながら公党代表のコメントに悩んでしまった。

 セクハラ問題に関して、元大臣は講演会で「日本のメディアは日本国家をつぶすために存在しているのかと、最近つくづく思う」と話したそうだ。この講演内容に対する批判の声は立場を超えて沸き起こっているそうだ。批判の声は当然のことであると思うしもっともっと強めなくてはならないと思う。

 朝日新聞の記事によると、元大臣の講演発言について与党の一員である公明党の代表は「そうした発言は慎むべきだ」とコメントしたそうである。ここでいう「慎む」ということはどのような意味だろうか”気になる”ことである。公党の代表は、元大臣の講演内容に”きっぱりと、異議申し立て”できなかったのだろう。だから「言葉を慎重に」とコメントしたのだろうと思う。つまり元大臣の「メディア観」について公党代表は同調しながらも「言い方を選ぶべきだった」とコメントしたのだろう。

 「慎む」とは「度を越さないよう気を付ける」とか「控えめにする」という意味だそうですから、元大臣の講演内容を打ち消してはいないのである。つまり「メディアは国家をつぶすために存在する」ということを公党代表は「容認」しながら”言い回しを変えてほしかった”とコメントしているのだと思う。 

 いまの与党の姿勢を映したコメントだと思いました。とても許せない残念なことである。

疑獄史を塗り替える「公文書改ざん」許すな

 きょうも夕方近くに駅前を通ったので夕刊紙日刊ゲンダイを買いました。

 1面見出しは「疑獄史を塗り替える森友加計」そして「官邸主導、役所ぐるみという驚愕」である。もちろん毎日のように新事実が明らかになる「公文書改ざん」問題が記事の中心である。見出しにある「疑獄史を塗り替える」というのは、ロッキード事件リクルート事件、佐川急便事件などの首相や政治家が関与した事件として多くの人々の胸に残っている。いわば「贈収賄事件」だがそれらを想いおこしても、今回の「公文書改ざん」事件は”官邸主導”という点でより重大であり「疑獄史を塗り替える」ほどの大事件であるということ。

 夕刊紙報道など信じられないと思うかもしれませんが、4月14日付けの「日刊ゲンダイ」の記事は全体として”核心”をついていると思う次第です。

 記事は「国家を私物化する首相を、日本国民は許すのか。いままさに民度が問われている」とむすんでいる。その通りである。国民は、いまこそ怒りを表現し行動で表す時だと思う。「日刊ゲンダイ」もご奮闘ください。

 関連記事で「おかしいんじゃないの」と思うことがありました。一つは、森友学園前理事長が詐欺罪で牢屋にいるらしい。彼は無罪というつもりはないが、いま明らかになりつつある「官邸主導」がはっきりしたら”詐欺罪”はどうなるのだろうか。もう一つは「虚偽作成罪問えず」という2段記事に関すること。素人判断だが、この記事では「虚偽公文書作成罪」に該当しないというようである。それでは「公文書」は”勝手に書き換えても罪にはならない”と言っているように見えるが「正確」なのだろうか。公文書の「改ざん」は罰せられるのが筋のような気がするのだが、いかがですか。

話題は「首相案件」と「記憶の範囲」

 高齢者が数人集まると、年金振込月でもあるためか年金の少なさや健康状態、そして医者代の負担が話題になる。顔ぶれは70代がほとんど。

 健康状態では、背中が痛い、首が痛い、膝が痛い、腰が痛い、イボが痛くて歩くのがつらい、気候変動で気分が落ち込む、塩分を押えろと言われ味が薄くなった、血圧が高めなど話は尽きない。ある人が、「テレビや新聞を見ているとどうして毎日のように新しいウソがばれてしまうのだろうか。あれを見ていると情けなくなって余計に体調がおかしくなってしまう」と話した。この話には皆が同調したように思えた。

 最近では、ついにここまで来たかと思うような「加計学園」での「首相案件」メモが発覚したことだろう。しかも地方の地元でのメモである。これに関連して「記憶の範囲ではございません」と答弁した偉い人が居ると聞いては「開いた口が塞がらない」そのものである。シンジロウさんも言っている通り「記憶の範囲」外のところで真実を明らかにしてほしいものである。

 ほかに「森友」のごみ問題での新事実、防衛省での「日報」問題、厚労省でのデータねつ造など。誰かが「安倍もこれでおしまいだな」というと「それは少し早すぎるだろう。お終いにさせるためには世論の盛り上がりが必要なんだから」と解説する。すると「それもそうだな。じゃ国会前に行こうか」と元気な意見が飛び出した。ところが「その元気があれば、行きたいけどな~」のつぶやきで、わが身を思い知らされた。

 気持ちは”若い”のである。一般庶民を忘れた政治家や高級官僚の姿勢を正すのはいまを置いてない。いまですよね、林先生。

「ものの見方考え方」をテキストに

 晴れて大学の門をくぐることができた4月、新歓行事の呼びかけでサークルへ加入することになった。サークルの数はいっぱいあったが、どれも研究部を名乗っていたので当方は「ケイケン」という研究部に参加した。大学生として「資本論」を勉強できるといった高揚感があったことは間違いない。 

 研究部での学習活動が始まると、学校職員となったOBが講師として参加した。講師の説明に従いまず最初に選んだテキストは『ものの見方考え方』(高橋庄治著、文理書院)であった。テキストは5章に分かれており、5月初めからスタートし、第5章は7月ごろに学習しようという計画を建てた。

 実はこのテキストは、現在でも書棚に鎮座している。1968年4月21刷発行と奥付にあるので相当数の読者を持った人気の本だったようだ。定価は300円とある。当方は20歳を過ぎたころ文理書院が発行する雑誌『人生手帖』を時々読んでいたので、同じ出版社が出しているテキストに親近感を持ちながら学習会に参加することができた。

 さて、50年ほど昔を振り返るり、何を学習できたかと考えても思い当たることは少ない。初歩的な点で、理科や生物といった「自然科学」のほかに文学とか経済などの「社会科学」の分野があることを理解できたことが大きかった。経済学の『資本論』はまさに社会科学の分野にあるということ。その社会科学を「見たり考えたり」する視点とでもいうことをなんとなく教えてもらったような気がする。

 大事な点は「存在」ということだろうか。いま時点の公文書改ざんや隠ぺいに通じることがあるような気がする。それは「思うこと」「存在すること」との違いでもあるだろう。その延長線とも言える点で「理論と実践」がある。この「理論と実践」は今でも好きな”言葉”である。推論を実践で明らかにし、その繰り返しで一段と高い地点での経験を身につけることができる。人生経験の重みにもなることだろうと考えている次第である。

 大学1年次の想い出である。

 

新歓でつかんだ人生

 この時期は「新歓」行事が盛んである。その「新歓」で出合ったのが経済学を研究するというサークルであった。

 1960年代半ばに夜間定時制高校から、おかげさまで御茶ノ水の私立大学夜間部(第二部)に入学できた。夕方登校すると学内の広場では各サークルの「新歓」行事である呼び込みというか勧誘活動が活発に行われていた。当方は「経済学部」を選んでいたこともあって「経済」に的を絞って説明を受けた。その中でマルクス資本論を読めるようにする」との誘い口上に入部を決めた。

 なぜ「マルクス」かと考えるのが一般的と思う。当時の発想は「マルクス」ではなく資本論を理解するほうに重きがあった。それは定時制高校での授業中に歴史的名著のひとつとして「国富論」と資本論ほかが紹介された。先生はいろいろ説明を加えてくれたが、経済学の原理、原則を解明した論文として多くの人が関心を持っている名著である~と話していたような気がする。その資本論にじっくり向き合えるならぜひ仲間に加わろうといった気持であった。

 新入部員歓迎会には先輩やOBも参加したが、新一年生が10人近く参加した。なかには体も話の内容も”モサ”と言えそうな人も含めて個性的な顔ぶれが印象的であった。数人が「『資本論』を読めるというので入部した」と動機含めて自己紹介したのを記憶している。

 以来4年間、このサークルに身を置き、現在もOBの一員として時々会合に参加することがある。大学生として「新歓」行事で出合ったことがいまの人生のスタートと言えるかもしれない。

国民生活安定のために消費増税断念を!

 いま関心のテーマは、公文書の改ざん、隠ぺい、ねつ造だろうか。

 朝日新聞3日付け経済面に編集委員氏による「公文書改ざん財務省悪玉論に走る愚」の記事が掲載された。見出しに”そだね”と思いながら読み進んでゆくと終盤で消費税が話題になり、編集委員氏は「消費増税財務省のためでなく、国民生活安定のために欠かせないものだ。冷静な世論が求められる」と結んでいる。

 途中の段落を読みながら”そだね”との思いを重ねていたが、結局「文書改ざん」と「財務省」の問題はいつの間にか「消費増税が国民生活安定に欠かせない」との結論になっていた。これには驚きである。

 見出しから、「文書改ざん」問題で財務省だけを悪者にすることは愚かしいことである。問題の本質は民主主義の基本にかかわることでありアベ政治の姿勢が問われているのだといったように展開するかと思っていたのである。勝手に思い込む当方の愚かさに気づいた次第である。

 文書改ざん問題で、「財務省にお灸を据えたいという思うあまり、世論がそんなムードに乗ってしまえば、まさに国を誤る」と、演壇のうえから、財務省=悪玉論を批判する。

 どうも編集委員氏は、文書改ざん問題よりも「消費税を10%に引き上げることの先延ばし」を心配しているようである。当方は断念こそが筋だと思うのである。

 とんでもないことである。あの安倍ソーリでさえ「消費増税」がその後の経済にどのように影響するかを考えて実施時期を先送りしたではありませんか。ほんとうに2019年秋に消費税が10%に引き上げられたなら、俺の生活はどうなるか考えただけで気分は落ち込んでしまう。

 考えてみよう。高齢者は月を経るごとに身体の不具合を強める。医者に診てもらう回数が増える。パート仕事がきつくなり、そしていつまで働けるかが心配になる。ついにパート契約を断念する時期が来るだろう。そのとき消費税が10%になる。その負担は重いのだ。介護保険が増える。年金は削られる。外出回数を減らす。わずかの楽しみを控える。部屋にいる時間が増える。運動量が減ってくる。体力が衰える。いつの間にか「孤独死」の記事が出ることになるだろうか。

 いったい誰が「消費税増税」が国民生活安定に欠かせないと考えているのだろうか。

 庶民増税の重みをわかってほしい。編集委員どの。

ほうれん草と春菊のタネを蒔きました

 近くのホームセンターが改装休業のため頼りの野菜の苗が入手できません。苗だけでなく肥料や種も難しいので畑の野菜作りが遅れています。

 悩んだ末、かなり離れたホームセンターに行き、春菊、ほうれん草、春大根、サニーレタス、ニンジンの種を買いました。とりあえずきょうは、春菊ほうれん草の種を蒔きました。例年よりあったかい気候のためどのように成長するか心配な面もありますが成長・収穫を楽しみにしています。

 野菜は気候変動に敏感なことは、この冬の寒さに随分と学習することができました。学習内容がどれだけ身についたかは定かではありません。これからの成長を観察しながらまた学習しようと思います。