集団就職世代の想い出といま

北東北の奥深い山の集落から15歳の誕生日を迎えたばかりの少年が大都会の町工場に就職した。それから60年ほどが過ぎたいま、さまざまな想い出とこれからを綴る。

「残業代ゼロ」をめぐる連合の”先走り”を問う

 理解が十分でないために不確かなことだと思うが、「残業代ゼロ法」に向けた政府と労働組合「連合」の妥協が少し先送りされたらしい。どうも「連合」の先走りが要因のようである。

 これはよく知られる「1日8時間労働」とか「週40時間労働」を定めた労働基準法の改定なのか、または別の法律の制定なのかよくわからないが、問題になっているのは一定要件を満たせば残業代を支払わなくてもよいという点のようである。だから「残業代ゼロ」が常態化するとか「過労死」がなくならないと非難されているようだ。

 どのようなことがあろうとも「残業代ゼロ」法を成立させてはならない。働き方改革とか言葉の響きの問題ではない。働く者の権利と環境(労働時間短縮など)が改善されるなら考えが変わるだろうが働く者の環境を後退させるような法案を容認することは許せない。

 今回「連合」が”先走った”と言われるのは、連合内の最高トップが参加の組合に内諾を得ていなかったことと連携してきた民進党とも協議が進んでいなかったことが取りざたされる。 

 このような報道を見ていると、「連合」の生い立ちや政党との関係を思い出さざるを得ない。かつて労働組合には「同盟」と「総評」があった。それが様々な要請があったのだろうか「連合」になった。右の寄り「同盟」と左寄りの「総評」が合体することで全体として”やや右より”になってしまったのだろう。そのころから政党のほうも変わってきたし、連合と政党との関係も問題をはらんできた。

 政党は、民主党と「維新」の合流で「民進党」ができた。そこには原発の問題が大きく横たわっている。最近では代表者の国籍まで問題になりだしている。

 つまり、生い立ちを考えながら、それぞれが持ち合わせている核とした羅針盤のようなものが打ち立てられていないことに気が付く。労働組合には多様な考え方があってもいいじゃないかと思うのだが、核心は「労働者の生活を守る」とか「権利を守る」ということではないだろうか。

 連合の”先走り”には、財界や政府を「忖度」したことがうかがえて、非常に残念である。労働組合も政党も「基本」を絶えず見据えて活動し行動してほしいものである。

都民ファースト大勝に思うこと

 2日の都議選の結果、小池百合子の「都民ファースト」が大勝した。同時に自民党議席が極端に減ってしまった。マスコミをベースに考えると、自民党が様々な事件を抱えて自滅したということでしょう。

 ところで「都民ファースト」というのは政党なんだろうか?。党首が改憲論者として知られる人らしい。前自民党都議や前民主党都議、みんなの党を結成した栃木の「よしみ」議員も小池を担いでいる。新人議員には弁護士や税理士、アナウンサーなど多彩な顔が並ぶというが、この方々の政策的一致はどのへんに定まっているのだろうか。実に不思議な状況だと思う。

 築地市場豊洲移転一つを取ってみても「小池の説明している通り」ということになるのだろうか。それとも小池とは少し違う考えを持つ人がいるのだろうか。いないのだろうか。小池や党首、よしみ議員の立ち位置からするとかなり「保守的」に思えるのだが新人議員たちはあらゆる面で政策的に同調するのだろうか。単なる選挙互助会とすれば別だが、都民の負託を受けた都議会議員としての政策責任は重いと受け止めるべきだと思う。

 都政では青島知事や石原知事を選択した経験がある。国政では細川新党や河野洋平新党、小沢新党、小泉チルドレン、また民主党新政権も経験している。大阪では維新による県政・市政も経験している。名古屋の減税市政も経験している。なんとなく時の「人気」を頼りにした選択のむなしさをかみしめながら、これからを考えたいものである。しっかりした「芯」とか「心棒」を探すこと、持つことが大事だと思える次第である。

吹割の滝とサクランボ狩りを楽しみました

 

 2日には、上州さくらんぼ狩りと吹割の滝を楽しむ日帰りバスツアーに参加しました。朝のうち雨が降っていましたがバスが出発するとだんだんと天気は薄日もさすような空模様に変わってきました。気温も予想ほど高くなくまずは上州バス旅日和だったと思います。感謝です。

 吹割の滝は一度は観ておきたい名所だった。本当はあの周辺に宿を取りゆっくり散策するのが一番だったと思うのだが、チャンスを逃してはいけないと日帰りバスツアーに応募するとキャンセル待ちをクリアーして参加できることになりました。これも感謝です。

 吹割の滝は、沼田市刀根町にあります。滝の高さは7メートル、幅30メートルと言われ、天然記念物に指定され、東洋のナイアガラと言われる名所。様々なガイドブックの写真のようにはいきませんが当方のデジカメで記録した写真は次の通りです。ガイドさんによると水量も適度で見ごたえ十分ということでした。 

f:id:yasanjin2016:20170703191242j:plain    

 その後、サクランボ農園で食い放題のさくらんぼ狩りを楽しみました。当方にとってはさくらんぼの味よりも、担当者の話の方がよっぽど学習になりました。ちなみに、サクランボの種類は6~7種類あり、それぞれを混植することで受粉を促すそうです。その受粉のためには近くの養蜂場と契約してミチバチを借りてきて、サクランボのみつを持ち帰ってもらう。養蜂家はサクランボのはちみつとして販売できるという。話を聞いているとさくらんぼ農園は、昼飯を食べたドライブインと経営者が同じということだった。つまり、観光客をドライブインに呼び込み、ついでに季節に応じて様々な農園を見学してもらうという仕組みをツアー会社と一緒になって作り上げているらしいことが分かった。なるほどなるほどと勝手に理解しながら、サクランボも名所も楽しんだ。

 感謝の一日でした。

  

6月の速足散歩は27回でした

 健康のためにと速足散歩1時間を続けている。6月は30日のうち実に27回(日)歩きました。この回数は我ながら「努力賞」だと思います。

 回数(日)が比較的多かったのは、梅雨入り宣言されたとはいえ雨の日が少なかったこと。それと5月から早朝の散歩を始めたことが大きい。早朝というのは、4時半から60分ほどの散歩であるが、いまの時期、明け方の”薄暗さ”を感じることのない明るさである。確かに車や人通りが極端に少なく散歩にはうってつけでもある。

 これからの気温のことを考えると、しばらくは早朝が散歩に適しているかもしれない。ただ早朝の明るさがいつごろまで続くのか気がかりである。日の出が遅くなり4時半スタートが無理になると、パート仕事との関係で午後から夕方に歩くことになってしまう。そうすると回数がやや減ってしまうかもしれない。

 まあ、無理のない散歩を心がけてきたのだから、1ヵ月の回数にこだわらずに「健康づくりの散歩」を目指すことにしよう。

小学校の同級生は11人

 子供のころ山奥の村は町村合併により「市」に変身した。1954年(昭和29年)11月のことである。そのころ村には大字が5つありそれぞれに小学校がおかれていた。ほかに分校が2つあった。中学校は役場のある近くに1つあり、村中から生徒が集まった。つまり村には学校が小学校7つと中学校1つがあった。

 当方の通う小学校は、村の中でも山奥の方であったが生徒数は2番目か3番目の数だった。それだけ集落が多かったことになるし、1つの小字集落には分校があった(わが大字には小字集落が4つあった)。小学校3年のころまでは1~3年生と4~6年生がそれぞれ同じ教室に机を並べていた。典型的な複式学級である。その後校長先生が変わり1~2年生と3~4年生、5~6年生が3つの教室に分かれて勉強した。先生は校長先生夫妻のほかに独身の先生が赴任してきたのだった。

 何しろ小学校の生徒数は、多くて30人ほどで、半分ほどが親戚のような顔ぶれだった。なかで当方の同級生は11人(男5人、女6人)でとびぬけて多かった。その頃の生徒数は村の中でも2番目だったと思う。

 それが中学生になると、村の中学校に通う者は男4人のみで、あとの7人は隣村の中学校の分校に通うことになった。それほど辺鄙なところで村役場近くの中学校との距離感がわかるような気がする。通学時間は、我が家から小学校までがざっと1時間、中学校までは山をいくつも超えて歩いてざっと2時間と言われてきた。それ以外の通学手段はなかった。

 村の中学校には7つの小学校から生徒が集まった。3学年全校生徒数はざっと200人を超えることがあった。だから学年によってクラス編成が2つになることもあった。山奥から出てきた当方など生活感覚の違いから物怖じしてちじこまんでいたことを想い出す。

 そんな電気のないころの生活を想い出した。

 

旧暦のお盆は子供の楽しみだった

 こどものころのお盆は、いまのような月遅れではなく旧暦に従った行事であった。従って現在の新暦でいえば8月後半から9月初めごろに行われていた。

 子供が楽しみにしていたのは、何よりも家族が普段の仕事を休んでくつろげたことである。真夏のことでもあり畑仕事や炭焼きの仕事などを休み本当にゆっくりしていた。そんなことは正月とお盆ぐらいしかなかった。ということで、たまに親戚が訪ねてくることもあった。その際は、手作りの「まんじゅう」や「背中あて」などの手土産を持ってくることが多かった。なかには町で買ったお菓子が混じっていることもあった。その手土産は、普段の食事と違って珍しいごちそうであった。それが子供の楽しみでもあったわけである。それに親戚の人たちと会うと親しみもこみ上げて甘えられることや褒めてもらえることがうれしかったのである。

 まんじゅうというのは、小豆をつぶしたテニスボール球を小麦粉の皮で包んでゆでたものである。背中あては小麦粉を伸ばして四角に切ったものをゆで上げたもの。その名前は固く重いものを背負うときに背中に当てていた四角い厚いゴザ風のものに由来するだろう。それは炭焼きにとっては必需品であった。

 我が家の墓は、歩いて40~50分のところにあった(集落の墓地)。墓と言っても墓石などほとんどなかった。戒名を書いた卒塔板がある程度だった。地べたにお線香やろうそくを立て松の木の切れ端に火をつけて先祖を供養するのがほとんどである。家に戻ると松の木の切れ端をそろえて送り火や迎え火を炊いた。それが子供らの仕事でもあった。

 子供のころというのは、昭和29年11月以前のことである。というのは1954年になって、山奥の村は「市」になってしまったのである。そのころ、ようやく灯油ランプの照明から電気照明に変わったのだった。電気が来るといっても集落では大変だった。何しろ自分の家までの電柱は自前で準備しなければならなかった。今でこそ電柱はコンクリ製だが当時は栗の木の大木だったから、どこの家にでも栗の木があったわけではない。それを集落で融通しあったわけである。

 そんな貧乏な山奥の生活を想い出した次第である。わが人生の原点でもある。

 

ききょうは”盆花”といった

 近所の庭に真っ盛りのキキョウを見つけた。その品種などはわからないが”桔梗”であることは間違いない。草花の中でも好きな花の一つである。  

f:id:yasanjin2016:20170626181851j:plain

 当方が育った山奥では、「ききょう」は自然に生育する野草の花であった。だから特別珍しいことはないが印象強い花である。刻みたばこに「ききょう」という名前があったことも印象を強くしているのかもしれない。

 この「ききょう」を子供のころは”ぼんばな”と呼んでいた。それは旧暦のお盆のころ咲くからであったろう。旧暦のお盆と言えば新暦では8月後半から9月初めに当たるだろう。当時はお盆と言えば旧暦に従った年中行事であった。家族で先祖の墓に行く道中で草むらのききょうを探して何本かを墓に持って行った。何本かは赤アリの巣の上にかざしていたずらをするとアリの廃液でブルーの花がピンクに変わってしまう。そんな変化を楽しんだものである。

 旧暦のお盆は、子供にとって実に楽しみの一つであった。

 近所の「ききょう」を観ながら子供のころを思い出した。